このレビューはネタバレを含みます
数式は証明されなければ誰も見向きもしない。
1887年、南インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナムの極貧のバラモン階級の家庭に生まれた。幼少の頃より母親から徹底したヒンドゥー教の宗教教育を受けた
その後、周囲の勧めもあって、1913年、イギリスのヒル教授、ベイカー教授、ボブソン教授に研究成果を記した手紙を出すも黙殺される。だがケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、ラマヌジャンの手紙を読み、最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕するようになる。ラマヌジャンの成果には明らかな間違いや既知のものもあるが、中には「この分野の権威である自分でも真偽を即断できないもの」、「自分が証明した未公表の成果と同じもの」がいくつか書かれていたからである
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジにて他の科学者と共に撮影。中央がラマヌジャン。
ハーディはラマヌジャンをケンブリッジ大学に招聘し、ラマヌジャンは1914年に渡英する。しかしイギリスでの生活に馴染むことができず、やがて病気を患ってインドに帰国、1920年に病死した。ラマヌジャンは敬虔なヒンドゥー教徒であり厳格な菜食主義者だったが、第一次世界大戦下のイギリスはドイツによる通商破壊もあり、確保が困難だった。こうしたことが原因で、ラマヌジャンは身体的な衰弱を来たしたものとされる。なお、ラマヌジャンの病気は結核か重度のビタミン欠乏症、近年の研究ではアメーバ性肝炎と言われるが、劇中では明らかにはされていない。
渡英後に発表した四十編の論文の他には、渡英前の数学的発見を記したノート三冊、帰国後に記された「失われたノートブック」が残っている。ただし、大学で系統的な数学教育を受けなかったため、彼は「証明」という概念を持っておらず、得た「定理」に関して彼なりの理由付けをするに留まっていた(寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた、など)。共同研究を行っていたハーディも、彼の直感性を損ねることを恐れて証明を押し付けることは避け、朝ラマヌジャンが持ってきた半ダースもの「定理」を一日かけて証明するという方法をとった。一方、明確な証明をしないラマヌジャンの業績は理解されにくかった。彼が26歳までに発見した定理に関して、その後多くの数学者の協力で証明が行われたが、その作業が完了したのは1997年である。「ノートブック」と「失われたノートブック」の全文が出版完了したのは2018年である。
渡英前のノートに記された公式群は、既に知られていたものも多かったが、連分数や代数的級数などに関しては新しい発見があった。渡英後に発表したラマヌジャンの保型形式、それに関連したラマヌジャン予想は重要な未解決問題であった(1974年にドリーニュが解決)。その他、ロジャース・ラマヌジャン恒等式の再発見や確率論的整数論を創始した功績も高く評価されているが、帰印後のハーディへの手紙に記された「擬テータ関数」の発見が最高の仕事と評されている。
「数学者の最大の栄誉は
ケンブリッジのレン図書館に自分の文書が飾られること。
モーガンの聖書また、ミルトンの詩
数学者としてはニュートンの自然哲学
ニュートンが物理的側面を描いたが、ラマヌジャンは抽象的側面を発達させた。
ラマヌジャンが発見した数式は1世紀後、ブラックホールに活用されている。」
【感想】
モーツアルトが頭の中で構想曲が作られているようにラマヌジャンは頭の中で数式が溢れ出ている。
ただし証明しないと誰もわからない。
魔術師のような見られてしまう。しまいには精神病患者にされてしまう。
ずば抜けた才能はどの時代でも煙たがれたり、評価がされなかったりする。
無名で終わっていた可能性もあったが、世の中に認知されて、業績が生きているうちに出せたのはハーディーのおかげであろう。
ただあまりにも世界が変わってしまい、順応する時間もなく、戦争、妻との行き違いがあり、一人で悩む事になる。
数学と結婚した唯一の友達であるハーディーにも理解できなかった。
残り一年は妻のもとで暮らしたが、今までの心労がたたったのか、神から託された時間が終わってからなのか。32歳の若さでこの世を去る。恐らく、インドの神になっているのであろう。
インドでは丁寧な挨拶に
目上の人に両足(右足?)を触って拝む(ナマステ)。
インドでは先生や親、祖父母、聖職者など、目上の人、年上の人に会った時、まず相手の足に軽く触れるという習慣があります。
これも先述のプラナーマの一種だそうです。