[兄の目線]
※自分の視点を書くため最後にネタバレを含め書きます(ここからネタバレと書きます)
まずこの若き天才監督の映画について。
この方の作品は自分も響くものが多く、特に『Mommy/マミー』は2015年で見た映画の中で最も感動したため個人のベスト10で1位にしたほどの作品だった。
グザヴィエ・ドランという人は、勝手ながら「とても素直」な人なのではないか?と思っている。そうでなければ「心の解放と共にアスペクト比を変える」なんて演出は、思いついても実際にはやらないほど直接的な表現に見えたからだ。
音楽とシンクロさせる演出などもそうで、本来ならチープに見えてもおかしくないギリギリの事を、彼の真剣な眼差しによって作られた映像には、何も言えないほどの強度が宿ってるように見えて心を奪われてしまう。
今作は、
若手作家として活躍したルイという主人公が、死を目前に控え(何が原因かハッキリとは提示されていないが、それは何故か後で書きます)長く疎遠していた家族に打ち明けるべく故郷へ戻ってくる。
母、兄、兄の嫁、妹、が暖かく迎えてくれたが、その会話の中で、長く家族と向き合わなかった部分が現れ始め、自分の死について言えなくなっていく。
誰しもがもつ感覚であろう「家族とはいえ他人」という部分や「言葉の裏読み」をしてしまう人間の悲しい部分が集約されてるような光景が展開される。
この作品では、冒頭以外は主人公に重要な部分はほとんど語らせない。
家族となんて事ない会話のすれ違いや、目線、さらに間で語っているように見える。
それは彼の家族の描き方もそうで、特に後半に向けて母や兄が「何もわかっていない家族」というよくある描き方ではない事がわかってくる。
ラストシーンを皆はどう見たのだろうか?
弟の話を聞きたくないほどに嫉妬した兄が、また癇癪を起こしたのだろうか?
兄は、やっぱり最後までただのクズだったのだろうか?私は、それとは完全に真逆にしか見えず、
涙した。
『たかが世界の終わり』
その「たかが」という部分は、
誰から、誰への目線だったのか。
----ここからネタバレ-------
まず、主人公の死について。
これは彼がゲイである事からやはりHIVではないかと推測できる。
そしておそらく明確に見せなかったのは、HIVと限定するより、もう少し「死ぬ」と言う事を開けた表現にするためだったのではないかと思う。
母親はわからないが、
少なくとも主人公の兄は主人公がゲイである事を知っていて、おそらくHIVの事を知っていたのだと思う。
兄は、ゲイである彼を何か美しいものとして見ている妹や、自分にはない感性、さらには街から出て自分よりも自由な身だった事など、様々な嫉妬やねたみもあったのだと思う。
私は始め、主人公の若い時のパートナーが死んだ事をわざわざ主人公に話すのを見て「何故そんな事を言うのだろうか?」と思っていた。
しかしラストシーン。
終わりを告げるような主人公の告白を遮るかのように、兄は無理矢理帰らそうとする。妹には乱暴者と罵倒された時に「お前は何も知らないくせに」と涙を流す。
そう、兄は主人公に「最後の告白」を言わせたくなかったのではないだろうか?
私には泣きじゃくる兄を見ながら、こんな言葉を主人公である弟に送っているように聞こえていた。
「たかが」
「たかが、死ぬだけのことじゃないか」
「たかが」
と。
私がこう思った理由のひとつにドラン監督の受賞時のスピーチにある。
「私たちがこの世で求める唯一のことは、愛し、愛されることです。特に僕は、愛されたい欲求が強いのだと思います」
兄の行動や言葉の裏には、ただの嫉妬以外のものがある。私にはそう思えてならなかったのです。
なぜなら、
私自身、現在現役でイラストレーターとして活躍する才能ある弟、
その「兄」なのですから。