しゃべうん

サウルの息子のしゃべうんのネタバレレビュー・内容・結末

サウルの息子(2015年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

「ホロコーストの表象不可能性」という問題がある。究極的に凄惨な事態を小説・映画・舞台などのエンターテイメントに落とし込んで消費することが許されることなのか?”あれ”をフィクションとして語ることができるのか?という問題。表現に携わる者なら、この上なくセンシティブなこの題材にすごく気を使うし、頭を悩ませたこともあると思う。

本作は、ゾンダーコマンドが当時撮影したピンボケのアウシュビッツの写真のように、主人公サウルの周囲の風景をぼかして撮影することで、ホロコーストの表象不可能性に新しい表現方法を与えたと評判である(「シンドラーのリスト」を批判し、”あれ”をフィクションとして描くことなど到底できないと、ほぼ人の証言だけで構成された9時間のドキュメンタリー映画「ショア」を撮影したクロード・ランズマンも絶賛したらしい。相当の映画だ)。そしてこの周囲の風景を映さないというのは、極限の状態で目の前のことだけに集中するようになったサウル自身の体験の再現でもある、というのがこの映画に対する前知識。

そんな周囲の風景が見えない映画の中で頼りになるのが”音”だが、それも色々な言語が入り混じっていて、字幕がない部分は周囲の人々が何を言っているのか全くわからない場面もある。同胞とはいえ、様々な国の人がいた為になかなか連帯が出来なかったというゾンダーコマンドの史実を伝えようとする努力を感じる。作中で、なんとか外へ収容所の状況を伝えようとするゾンダーコマンドたちが描かれるが、史実だと大国の思惑の中で潰えたその努力を思うと胸が痛い。

終始画面いっぱいに映るのは、もはや死んでいるような顔色で淡々と作業をこなすサウルの姿。”虐殺”という究極の行為でも、ここまでシステマチックに構築されていると人は作業のようにこなせるのかもしれない。
ガス室で見つけた自分の息子を、正式な手順で埋葬してやりたいというささやかな願いは、もはや生より死にフォーカスした願いであって、サウルの生への諦めようが伝わってくる。その息子も、サウルが自分の息子だと思い込んでいるだけで、おそらく全くの別人。映画が始まった時点で、彼はすでに狂気のまどろみに足を踏み入れている。サウルは、生き延びることが第一義の収容所内で、危険を冒し、周囲の仲間に疎まれるほど「正式な埋葬」に執着していく。その徹底的な埋葬への執着は、自分の息子だけに向けたものというよりは、これまで自らの手で葬ってしまった同胞全てへの埋葬・罪滅ぼしのように見える。
感情が麻痺したかのように(いや、実際していたと思う)無表情のサウルは、最後、生きているポーランドの少年を見て、穏やかに微笑む。その表情の意図は計り知れない。希望なのか、絶望なのか、過去に向けたものなのか未来に向けたものなのか。いくら考えても、何度見ても正直わからない。彼の表情を解釈出来るだけの言葉も、知識も、経験も持ち合わせていないのだ。アウシュビッツから飛行機で20時間も離れ、そこから77年後の世界を生きている私には。