フラハティ

母の残像のフラハティのレビュー・感想・評価

母の残像(2015年製作の映画)
4.3
母は教えてくれた。


突如崩れていく、“家族の中の母”。
一人の人間であり、一人の女性であった母は、事故当時何を思い、何を感じていたのか。
自殺の疑惑が浮き上がることで、母の残像は再び心をざわつかせる。

過去にも現在にも自在に時間は動いていくが、僕という存在はある時間で止まっている。
人間は不安定だし、多くの側面を持つもの。
自己存在に不安を感じ、自らの立場を消してしまいたいと感じることもある。
誰かのためにこの姿を演じ、誰かの幸せのために自分自身をトリミングすることがある。


本作は父側の人間(長男)と、母側の人間(次男)がおり、その対比が物語を振幅させている。
父親と長男は、充実したキャリアを描き、時に自分の感情に流される。
母親と次男は、存在価値が揺らぎ、死の臭いを漂わせる。

喪失と再生は同一線上に存在している。
誰しもが直面する死という概念から、家族の時間が再生を始める。
喪失の先に見えた世界は、母が見ていた世界ではなく、きっと限りなく生の輝きを放つだろう。
母の存在は、今でも家族を救ってくれる。
母が亡くなったという事実は変わることはないが、この世は変わり続ける。
身近な家族がそうであるように、トリミングされた状態で相手を理解することは不可能だが、変化し続ける人間の変化を受け止める寛容さを持ちたい。


それぞれに、その人間の実像が映し出されるが、それは必ずしも相手そのものではなく、トリミングされた一部。
家族だってただの他人。
と突き放すことではなく、他人だからこそ一緒に生きていけるのだ。
そんな包容力を感じさせる。
存在価値がないのはあり得ず、誰しもが家族の一員である。

繊細さ、詩的さが表現され、自己存在などが題材とされる映画にどうも弱いが、本作も間違いなくそんな映画。
キャスティングが特に見事で、ガブリエル・バーンの寛容な父親とか、ジェシーの気のいい兄貴とか、デヴィン・ドルイドの不安定な次男とか、違う一面を持っていそうなユペール様とか。
大まかなキャラクターの特徴を捉えながら、複雑な思考に陥る人物たちの内面を巧みに映し出す。



夜風に吹かれながら、美しい響きを乗せた詩が頭を巡る。
隣で微笑んでくれる彼女は、僕が思っているような存在か。
一瞬でも彼女が僕の“何か”を感じてくれたのなら。
…ふと現実に戻されると、“何か”が変わっている。
やっと自分の時間を感じられた。
ようやく母の姿を感じた。
もう夜が明けた。
フラハティ

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