純

この世界の片隅にの純のレビュー・感想・評価

この世界の片隅に(2016年製作の映画)
5.0
それでも、生活は続いていく。戦争前も、戦争中も、戦争後も、毎日どこで生きていても、生きている限り生活は続いていく。おいしいごはんを食べること、安心して眠ること、好きなときに好きな場所に行くことができなくなっても、ひとは生活しないといけない。でも、その生活だけが確かなお守りとなって、ひとを支え続けてくれる。

戦争についての話を何度聞いても、学んでも、結局私は本当の戦争を知らないし、知ることができない。でも、どんなに辛かったか、どんなに悲惨だったかを理解することはできなくても、「確かに人々はその時代を生きたのだ」ということを心に留めておきたい。

主人公のすずは、少しぼうっとしたところはあるけど、ほんわかとした雰囲気を持った女の子で、絵が上手くて、お兄ちゃんにたまにいじめられて、優しくときに逞しく生きている、本当に普通の子どもだった。戦争が始まる前は綺麗な絵の具で絵を描くことができたし、夏にはおばあちゃんが作ってくれた新しい着物を着て、おいしいスイカを食べることもできた。自然が溢れる小さな世界の片隅で、毎日を笑顔で過ごしていた。戦争前に人々が潤った毎日をキラキラと生きていた描写がとてもやさしくて、微笑ましくて、柔らかなタッチで描かれた世界と綺麗に溶け込んでいたと思う。

嫁いで呉にはるばるやってきたすずは、少し意地悪な義姉の皮肉と嫌味を受けながらも、毎日掃除に料理に洗濯に励む。戦争が悪化していくと、食べ物の配給は減少し、後々には中止されてしまう。それでも生活の知恵を使ってごはんを作り、持ち前の明るさと優しさで家族を支えて生きる姿を観ていると、あたたかい気持ちになったり、胸が締め付けられるような切ない気持ちになったりした。

義姉の徑子さんの娘、晴美ちゃんが「魚ちっちゃーい」と言いながらお絵かきする中、「紙に大きく書いたら大きな魚じゃけえね」と言ってあげるすず。防空壕で晴美ちゃんが「怖いよう」と抱きつけば、得意な絵で徑子さんの絵を描いて、「お母さんも一緒じゃけえね」と元気をお裾分けしてくれるすず。ぼうっとしていても、すずはばかな子でも弱い子でもない。むしろ、辛いことも不安なことも全部吸い込んで、そしてそれらを優しさで包み込むことのできる強さを持った、本当に素敵な女の子だ。真っ直ぐで、素直で、歪んだところがたったのひとつもなくて。戦争が当たり前の生活を取り上げていっても、すずは毎日健気にコツコツと生活を続けていく。辛い毎日を過ごしていても弱音を吐かずに、「うちはぼーっとしとりますけん」と朗らかな人柄でひとと関わり合い続けられる。支給は少なくなっても、すずはいつもあたたかいごはんとやさしい気持ち、笑顔を家族に与えてくれていたと思う。大好きな絵も思うように書けなくなって、生活も苦しくて、でもそれでも生きていた。なんとかしてやっていくのだと、本当に毎日を、一所懸命に生きていた。


一週間しか生きられない蝉がみんみん鳴いていたら、「短い命なのに、頑張ってるね」とひとは言う。でも、命の短さなんて、関係あるんだろうか。すずだって、すず以外の皆だって、それこそこの時代に限らず現代の人々だって、毎日を必死に生きてるんじゃないのか。蝉が自分の寿命を知って鳴いているのか知らないで鳴いているのかは知らないけど、終わりなく続いていくと思われる日常を、誰しも称えられるに値する必死な努力をして生きてるんじゃないのか。当たり前の毎日を当たり前に生きるっていうとんでもなく難しいことを、すずはひとり呉にやってきた身で不安もあっただろう中やってのけた。一日たりとも怠らず、誠実に、ささやかな生活をできる範囲でより良いものにしようとして、毎日を誰よりも大切に生きていた。毎日大好きな絵を描いて過ごせたら良かったのに。おいしいごはんを「お腹いっぱいだね」と家族で笑いあえるくらい食べられる時間が続けば良かったのに。本来ならそんな生活が確かにあったはずで、そしてこれからも続いていくはずだったのに。

貧しい中でもそこにあるものを工夫して生きるすずたちを偉いと思った、なんて口が裂けても言いたくない。どう見ても可哀想だろ。足るを知って慎ましく生きていることに感動なんて一ミリもしたくないんだよ、って気持ちでいる。どう考えても足りてなかった。ごはんも十分に食べられなくて、毎日不安で、大好きな思い出の場所が失われて、自分の人生に溢れていた「素敵」がみるみる奪われていく現状なんかに満足「するしかなかった」すずたちを、偉いとかいう気分を悪くするような言葉で形容するなんて、馬鹿にしてるのか、とさえ思う。報われなかった、どうしようもなく辛い現実をなかったことにしてるのと一緒だ。偉くなんかない。ただただ可哀想で惨めなだけだった。私たちが感じるべきなのは、あの生活でも「生きていられればそれで良い」なんて思えてしまう狂った非日常への嫌悪と、当時生きた人々の満たされなかった生活をやりきれなく思う気持ちだけだ。すずが健気に生きるほど、その思いが身に沁みる。可哀想だし切ないしひどい。私は、戦争の怖さや残酷さを語るなら、当時生きて、死んでいったひとたちを無駄に装飾したくない。虐げられた事実を正当化したくない。だって、戦争に綺麗なところはひとつもないって、汚らしくて暴力的で残虐なものなんだって、そう教わったのは一体誰なんだよ。

すずは本当に純粋な、頼りないけどきちんと自分の手で生活を作り上げて、自分の両足で立って生きてきた、強くて優しい女の子だったのに、そんな素敵な彼女に「ぼーっとしたままの私で死にたかったな」なんて言わせてしまう戦争は本当に最悪だ。彼女はもっと違う道を通って、大人の女性になれたはずだった。可愛らしい目の細め方も、波の兎も、口元の黒子と同じようにずっと残っていてくれる、すずの側に寄り添っている世界が見られたら良かったのに。

『この世界の片隅に』というタイトルは、ひっそりと、でも確かに生きているすずの生活を的確に表している。でも、結局どこもかしこも片隅なのだと思う。私にとっては私が世界の中心かもしれなくても、もっと広く見てみたとしたら、私の存在なんてちっぽけで見えないくらい端にしかないんだろう。誰もが世界の片隅で、毎日を必死に生きている。地味に見えても、みっともなくても、誰にも気づいてもらえなくても、確かにそこで生きているということを、何よりも大事にして生きていたい。

当たり前のことだけど、すず以外のキャラクターたちにも彼らの物語がある。すずの夫となった周作さんの、すずの過去や待遇を思慮してくれる懐の大きさ、折れることなく想い続けてくれる愛の深さも胸を打つものがあるけど、やっぱり徑子さんの生き方が胸を熱くした。はじめはすずにきつくあたる描写が多くて、正直嫌なひとだと思っていた。でも、物語が進むにつれて、ひとりで多くのことをテキパキこなせてしまう徑子さんは、ひとりで世を渡っていく度胸と強さがありながら、ひとりで悲しみを抱えきれない弱さも持っているんだと気づく。表では少し意地っ張りでプライドが高くて気の強い彼女も、本当は不器用でひとに弱さを見せるのが怖いんだと思う。いつでも強い自分でいなくちゃいけないと思っていたのかもしれない。自分だけじゃなくて、晴美ちゃんを守るためにも。ひとに見せる堂々とした姿、隠しきれない感情、すべてが苦悩や葛藤を抱えて生きる彼女そのものだった。本当は誰よりもひとの温もりを抱きしめたかっただろう彼女が、いたたまれなくてたまらない。こうして、すずも徑子さんも皆、悲しい過去を背負ったまま生活を続けていく。戦争は終わっても、それでも生活は続いていくから。

毎日当たり前の生活がしたいと願うのは、贅沢なんだろうか。私は今日も明日もおいしいごはんが食べたいし、できたら大好きなひとたちと楽しく、ときに真面目に話しながら食べ物を味わいたい。自分が大好きな映画もたくさん観たいし、本だって読みたい。安心して眠りたい。自分は今日も世界の片隅で生きていて、きっとあの子もあのひとも反対側の片隅でだったり案外近くの、でも詳しい場所も知らないどこかで生きていることを実感したい。それを、求めすぎかな、贅沢だから良くないよね、と謙遜したくないと思う。私は、「死なずに来て呉れて嬉しかった」なんて言葉を大事なひとに贈りたくない。私と私の大好きなひとたちが、私の知らない誰かさんたちからは一生知られないまま、教科書にも載らない、でも確かに大切な毎日を生きられる世界が、ずっとここにあればいい。そんな生活を続けていけたら、それでいい。