かーくんとしょー

湯を沸かすほどの熱い愛のかーくんとしょーのネタバレレビュー・内容・結末

湯を沸かすほどの熱い愛(2016年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

宮沢りえの怪演は噂に聞いていたので、録画して鑑賞。
良くも悪くもものすごい映画だった。
内容は後述するとして、少なくとも今まで存在しなかった映画という意味だけでも絶対的な価値がある。

実はあらすじを読んだ段階ではあまり惹かれていなかったのだが、開始10分の隙のなさで一気に持っていかれる。
この10分は私の観た映画史上でも最高クラスではないかと思った。
以下、作品の考察。

この映画は鑑賞者によっては批判したくなるであろうポイントがいくつかあると思う。
特に以下の三点。
①杉咲花が学校でイジメにあっており、休みたがる彼女を母役の宮沢りえが無理やり登校させる点。
②宮沢りえが実母に会うシーンで窓ガラスを割るやりすぎ感。
③言わずもがな、ラストシーンの是非。

特に①には私も最初は不快感を覚えた。
自身がイジメられた経験があったりする方は容易に受け付けられないだろうし、最近の弱者保護的社会の考え方で見るとかなり時代齟齬だ。
だが、そのように思われた方にも考えてほしいのは、このシーンが以下の二つの前提の上だからこそ成り立っているということだ。

(1)
まずは、宮沢りえと杉咲花の母娘が強い絆・愛で結ばれているという当たり前の事実。
それがなければ、娘は母にさえイジメられていると感じただろう。
イジメで自殺が起こる場合の多くは、学校だけの問題ではなく(仲が良い悪いではなくて)親にも状況をカミングアウトできないという状態を合併している。
その点、この母はイジメを知って受け入れ、その上で娘を学校に向かわせていることは認識しておいてほしい。

(2)
こちらが何倍も重要なのだが、杉咲花が宮沢りえの実子ではなく、実の母は育児から〈逃げ出した〉母であるという隠された真実。
だからこそ、母は娘に躍起になって〈逃げない〉ことを強要する。
下の義娘の母のエピソードからもわかるが、この〈逃げ出す〉ことへの母の抵抗は一貫している。
そしてそれはもちろん、自分の母が〈逃げ出した〉ことに起因している。
(だから②の場面は、自分の母もやはり〈逃げ出した〉〈女〉であるという不快な現実を目の当たりしての怒りを表現していると私は考える。)

この〈逃げ出す〉〈女〉像は、本作の根幹に関わっており、ダメダメ夫でありながら決して〈逃げ出さない〉〈男〉のオダギリジョーとの対比関係は明らかだ。
この対比の図式が、作中で、特に妻の中に強く存在しており、妻はそれを〈女〉を代表して是正していく存在なのだ。

私はこの映画はフェミニズム的な視点で見る必要性を感じた。
だが勘違いしてほしくないのは、フェミニズムは〈女〉を〈男〉と〈同等まで〉引き上げようとするものであること。
そのためには、既存の〈男〉優位の価値観で見ると、一見異常に強く見える〈女〉を描く必要があることだ。

オダギリジョーは一見尻に敷かれたダメ夫だが、上記のとおり彼は〈逃げない〉〈男〉であり、彼がいなければ風呂屋はできず、家族はまとまらず、妻は死後を託すこともできない、まさに精神的な大黒柱である。
夫は妻に依存していないが、一方の妻は夫の仕事と存在に依存している部分がまだある。
だからこそ病気になった妻は、自らを含む全ての〈女〉に〈逃げない〉強さを強要するのだ。

現代社会が成立させようと躍起になっている男女平等は、実は本当に成立させようとしたら、この映画くらいまだまだ傍目には違和感があるということだ。
〈男〉は〈逃げ出さない〉のに責められ、かたや〈女〉が〈逃げ出す〉ことを(鑑賞者も)無意識に許しているという社会の不平等----宮沢りえが立ち向かったものを無視せずに観てもらえたらと思う。

最後に③については、私にも説明ができない。(笑)
ファンタジーであることは確かだが、〈逃げ出さない〉〈男〉である駿河太郎の最後の台詞を下敷きにして述べるなら、宮沢りえが〈現実〉と勇ましく戦ったことに対し、オダギリジョーも駿河太郎も監督も、〈現実〉と戦って〈非現実〉の世界に足を踏み込んだのだろうか。
少し無理やりすぎるが、そんな風に考えたい思いに駆られるのだ。
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