Dick

顔のないヒトラーたちのDickのネタバレレビュー・内容・結末

顔のないヒトラーたち(2014年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

★初鑑賞2015.10.15
★原題「Im Labyrinth des Schweigens/沈黙の迷宮の中で」、英題「Labyrinth of Lies」。

【マイ・レビュー:ネタバレ注意】(2015.10.20)

❶超お薦め。
本作に、ドイツの良心を見た。
➋日本とドイツは、同盟国として、WWⅡを戦い、連合軍に敗れた。
両国は何百万人もの犠牲者を出して国土が荒廃したが、戦後、目覚ましい復興を遂げた。
➌この両国に上記のような共通点もあるが、根本的な重要な違いがある。
①ドイツは、真摯に過去と向き合い、反省し、記憶し、民主主義と法治主義を守り通している。
ドイツは、「ニュルンベルグ裁判」で国際的に裁かれている。
それにも関わらず、本作で描かれたように、自分達自身の手で自らを裁いている。
自国の戦争犯罪者を、自国の司法で裁いたのは、ドイツが世界で初めてだった。
謝り続け、過去を決して忘れない姿勢を貫いている。
だから、国際社会の信頼を得ているのだ。
一番重要な点は、ホロコーストの被害者であるイスラエルからも一定の信頼を得ていることだ。
②日本はどうか?
過去と向き合うどころか、反対に過去を忘れようとしている。
戦後70年の安倍首相談話では、
「いつまでも昔のことにこだわっていてはいけない。」
「子や孫や先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」
と語っている。
日本は、ドイツと同じように、「東京裁判」で国際審判を受けている。
しかし、自分達自身の手で自らを裁いたことは一度もなかった。
③これが問題なのだ。
触れられたくない過去を裁くことは、大変つらいことだが、このけじめをつけない限り、自分たちを含め、被害者の信頼を取り戻すことは出来ないと思う。
④余談になるが、中国と韓国については、ここ10年程の動きを見る限り、道理が通じるとは思えないので、日本人がけじめをつけた上は、毅然とした態度をとることが必要と考えている。
そもそも、中韓以外のアジアの国々で、日本を非難している国は皆無なのだ。
❹そのドイツでも、負の歴史に蓋をしようとしていた時期があったことを、本作で知った。
戦後13年となる1958年当時の西ドイツ。
戦後の経済復興が進む最中、戦時下のナチス・ドイツが、アウシュヴィッツで、どのようなことをしたのかは、ほとんど闇の中であった。
ナチスの残党として生き残った多くのドイツ人は、沈黙し、犯した罪を忘れようとしている。
劇中、アウシュヴィッツのことを聞かれた20歳の女性が、「知らない」と答えている。
主人公のヨハン検事(1930年生れの28歳)自身もアウシュヴィッツのことを知らなかったので、図書館で調べようとすると、アウシュヴィッツ関連の本は2冊しかなく、1冊は絶版、もう1冊は取り寄せるのに、10週間もかかるとのことで、手がかりがない状態だった。
当時のアデナウアー首相は「誰かが線引きをして、過去を沈黙の中に葬らなくてはいけない」と主張していた。
今年の、安倍首相談話と瓜二つだ。
学校では事実を教えない。社会でも調べる手段がない。
原題の「沈黙の迷宮の中で」とはこのことだ。
▲1958年(昭和33年)の日本の出来事
・皇太子妃決定
・岩戸景気 
・東京タワー完成
・1万円札発行
・ベニス国際映画祭で「無法松の一生」がグランプリを受賞
・初のバレンタイン・チョコレート
・フラフープ大流行
❺そんな中でヨハンが、1945年に行方不明となった父親の「常に真実を」という言葉に勇気づけられて奮闘する。
米軍の資料センターに行くと、ナチスは詳細な記録を残していた。
ファイルはナチス党員が1,000万人、親衛隊が60万人分あり、アウシュヴィッツの親衛隊員だけでも8千人分もあった。
周囲の協力が得られない中、彼と、仲間に加わったもう一人の検事とで、気の遠くなるような調査を開始する。
それは、8千ピースのジグソウパズルを解くようなものだ。
事実が少しづつ解明されていく過程がスリリングである。
❻ヨハンは、自分の父も、恋人の父も、母親の再婚相手も、更には信頼していたグニルカ記者までが、元ナチスだと知り、打ちのめされ、苦悩する。
善良な人々がなぜナチス党員となったのか?
そんなに多くの人々を自分に裁くことが出来るのか?
❼結局、ヨハンは検事の仕事を断念して、誘われていた弁護士の仕事に転職するが、それは自分の良心を殺さないと務まらないものだった。
❽ヨハンは、今度は迷うことなく検事に復帰する。
彼が転職した時、軽蔑の態度を示していた秘書のシュミットと同僚のハラー検事は、今度は優しく彼を迎え入れる。
この二人の心遣いが嬉しくて泣ける。
この時のハラーがヨハンに言った言葉は、本作中の数少ない笑えるシーンのトップである。
「完璧な人などいない。私以外は。」
❾終始、ヨハンの後ろ盾になる検事総長フリッツ・バウアーがユダヤ人だったのは驚き。
こんなことは日本ではありえない。
❿監督インタビューによると、この検事総長とトーマス・グニルカ記者は実在だが、ヨハンはフィクションで、当時携わった3人の検事の集約だった。
その検事総長とヨハンの言葉には重みがある:
「ヒトラーは死んでもナチスはそこら中にいる。」
「事実をもみ消すことは民主主義に反する。」
「嘘と沈黙は、もう終わりにしなければならない。」
「虐殺は、怪物や異常者によるものではない。それは良き市民、優しい隣人による犯罪だった。」
⓫映画の終盤で、アドルフ・アイヒマンがイスラエル諜報特務庁(モサド)の働きにより、逃亡先のアルゼンチンで拘束されイスラエルに連行されとことが語られる。それが1960年。
⓬しかし、残酷な人体実験を行ったヨーゼフ・メンゲレについては、国家の壁に遮られ、彼が1979年ブラジルで海水浴中死亡するまで手出しが出来ず、ヨハンの悲願はかなわなかった。
⓭最後に検事総長がヨハンに言う:
「君を誇りに思う」
最大のねぎらいだ。
我々観客も心からそう思う。
彼の勇気ある行動に最大の敬意を表したい。
人はどう行動すべきかを教えてくれる素晴らしい作品だ。
⓮アウシュヴィッツは、良き市民、優しい隣人による犯罪だった。
彼等は上からの命令に従っただけだと弁解する。
しかし、人間なら、非人道的行為に対しては、「NO」と言う義務があるのだ。
そのことを、この映画は教えてくれる。
⓯ここで思い出すのが、2年前に公開された『ハンナ・アーレント(2012独・ルクセンブルグ・仏)/4B○★★★★★』。
ホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンの裁判(1961)に立ち会い、その傍聴記を発表する。
アイヒマンのことを「思考することを放棄して命令に従っただけの凡庸な小役人」と評し、更に、ユダヤ人自治組織の指導者がアイヒマンに協力していたことにも言及したレポート『イェルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人社会からの激しいバッシングに晒され、彼女は苦境に立たされる。
親しかった友からは非難され、大学からは退職を勧告される。
それでも「絶対に辞めません」と毅然と対決する。
映画のラスト、アーレントが教壇に立ち、学生を前にして渾身のスピーチを行う。
(以下、『ハンナ・アーレント』「採録シナリオ」より)
「彼(アイヒマン)のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。……“自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ”と」。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました」。
「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。……“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」
⓰主人公ハンナ・アーレントを演じたのはドイツ人の女優バルバラ・スコヴァ(当時61歳)だったが、若いアーレントを演じたのが、本作でヨハンの恋人マレーネを演じたフリーデリーケ・ベヒト(当時25歳)。
絶妙のキャスティングだ。
⓱善良な市民が戦争では狂人と化し、非道な犯罪を犯した実例は枚挙に暇がない。
中でも、世界一の民主主義国家と言われるアメリカが、ベトナム戦争中の1968年に起こしたソンミ村虐殺事件は、兵士が殺した村民の首を手で誇らしげにぶら下げている写真が一流紙に掲載されたことで、世界中から批判の嵐を浴びて、今なお記憶に新しい。
この事件はウィリアム・カリー中尉率いる小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンミ村(人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)を無差別射撃などで虐殺したもの。
⓲それが戦争なのだ。
「正義の戦争」、「平和を守るための戦争」などはどこにもない。
だから、いかなる戦争もやってはいけないのだ。
⓳今月の「VW排ガス不正」、先週の横浜・マンションの「三井住友建設/旭化成建材のデータ改ざん」等、世界には不正問題が後を絶たない。
不正をした社員は、どう考えて行動したのだろうか?
多分、自分の良心より、上司の指示を優先させたのだろう。
ハンナ・アーレントが言った「悪の凡庸さ」は今でもなくならない。
「駄目なことは駄目」ときっぱり言う勇気を持ちたいと思う。
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