ニューランド

Giliapのニューランドのレビュー・感想・評価

Giliap(1975年製作の映画)
4.3
☑️『ギリアップ』及び『息子を訪ねて』『自転車を取りに』『10月5日土曜日』『何かが起きた』『ワールド·オブ·グローリー』▶️▶️
昔、併映の当時人気作『小さな恋のメロディ』より遥かにヴィヴィドで自由で印象的だった『純愛日記』(後に完全版を観ると、寧ろ親世代のやるせなさ·行き詰まりの熟し度の方が)から、21世紀になって観た、特異·孤高の驚くべき傑作『散歩~』(意固地さ·深み·敢えての制限を惹き付けとする強靭さ)を比べ、どうしても同じ作家とは思えぬスタイル·スタンスの違和感も憶えてきた。しかし、この愚鈍に、静止·停止者へや動き回り反復め(逆)フォローに、モッタリ前後移動(時に斜めへや、浅く横に廻る)を繰返し、一定テンポで丁寧に切り返すだけの、(ふたつは合わさってより重い)映画的流れ·魅惑から離れ、現実·リアリティからも浮いている、作品や記録になり得ないような単純な映画を観る機会を得て、何かが繋がり、おそらく(覚悟の?)対外的失敗に反し、深く納得·感動し、この作家を真正の作家と確信した。
始めと終わりに隙間風·波風の音がリアルに吹き込み、中間は隣室·近場の人声やジャズ等音楽が適度に入り込み、初終の向き直り観察や発見してく行動力以外は、互いに存在に独自に甘え·我が儘も認め合ってるも全体の呼吸が塞がっている、個々のシーンは長くはならずBOで中断される、『赤い波止場』等チョイワルも真っ当さ求める初期·矮小ヒーロー·等身大の日活アクションが、よりユッタリと連なり、ホン·サンスからカウリスマキを先取りしたズッコケ·停滞への感、カッコよさもすぐに否定される。しかし、飼鳥の奇怪鳴き声と同等に、本質·根の向上求めの所で力強い。誰もが「出てゆきたい」と想ってる(支配人も「気品·厳格」の喪失嘆く)街と旧ホテル、訳有り気な予め滞在短いと言う、イケメンの新ウエイター(ヴィーデルベルイ作品の常連さん)は、じつの所「秘密も夢·信念も何もない」カラッポ人間で、彼に近づく「同じ一匹狼、その世界の仲間いなければやっては。この惨めな現実を知り、風穴開けて、新生活へ」のワルもぶざまへ行き着くだけ。ウエイターは、クールも情豊かな女の出現に、「海へ出て、生きる意味求め、君の元へ戻る」をショートカットするが、成就から反転してく。 ホテル揃えから個人の調度·汚れと華やかさ併存の商売施設·その入り口と裏出口と奥従業員用エレベーター·催しセッティング·狭い個室·車やバイク·集いの柔らかさ·堅く見えた犯罪計画·浜辺や空の自然·多彩かくすんだ照明·箱と札と銃·個性ある従業員と客ら·そこには引っ込んでて出て来るフロントも、全てがリアリティを持つには純朴で弱々しく、しかし懸命に存在を内から作っている。イメージは明確で曖昧な流し·ごまかしやボカしは一切ない。イメージと存在をストレートに思索しながら愛してゆく。そこでの変に絡まり変にトンマな挫折は、決定的になり得ない、強靭で素直な何にでも頼り·また頼らぬで済む、個性の自覚·客観化を底に生じさせてゆく。もっともらしさ、を外したところで試されるものがあり、その話法を身に着ける前の、無鉄砲で先(観客)を見ない果敢なる挑戦と達成であり、おそらく一度きりのもの。
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これに先立つ上映の、この作家の初期短編集(『息子~』『自転車~』『10月~』)の、浅く廻る半フォロー移動の頻度が徐々に減り、家族内の力·抑圧関係の精密で力強い描き出し、柔軟な僅かめのカット変積みや外世界を意識させる·若いカップルの朝の一見無駄な生活感、家族や他者絡め·弱く不明なタッチも平気な·全的にカップルと周囲を捉えぬく、から中期短編(『何か~』『ワールド~』)の、色くすみも縦の図も·メイクや美術も·不安な音楽や台詞も、固定フィックス·完全プランセカンスで貫く、エイズ指導や·家庭家族や仕事の、「恐れ」感じつつの、過剰の貞節·屈折·限定品向かいの、不気味な普遍への到達(2000年からの名作群の先行の·純度そのもののエッセンス)、の間を(長編の変移は勿論、)見事に埋めてくれる鑑賞だった。ワン·カット1分撮影のシャープで皮肉も人間味あふるCF、2本もいい。
自作の解説を聴く限り、当たり前のおっさんだが、哲学者みたいな高度の語りをする人の作品が思いの外平凡な事が多く、作家の見掛けと作品レベルがあまり比例しないのが世の常というものか。最たるものがヒッチコックかな。
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