Shingo

シン・エヴァンゲリオン劇場版のShingoのネタバレレビュー・内容・結末

4.4

このレビューはネタバレを含みます

ついにと言うか、やっとと言うか…。四半世紀の歴史に幕が下りた。
とにかくまずは、この作品に携わったすべての人たちへ、お疲れ様と言いたい。ありがとう、そしてさようなら。

かつてのエヴァファンが、TV放映時に見たかったであろう最終回。
人類補完計画ってなんぞや?碇ゲンドウの目的は?使徒って結局なんやねん。そんな疑問に最低限の回答をしつつ、ファンがそれぞれに思い入れのあるだろうキャラクター達に、誰もが納得しそうな結末を与える。
基本的には、ほぼ"そのためだけ"に作られた一本と言っても過言ではあるまい。
それはどこか、「アベンジャーズ:エンド・ゲーム」がMCUの過去22作品の総決算として作られたのと似ていたように思う。エンド・ゲームが上手かったのは、タイムスリップして過去の出来事を振り返ることで、ユニバースを総括できたことだ。
本作もまた、エヴァのみならず、これまでの庵野監督が生み出した作品が総括されているように感じた。

冒頭のパリ奪還作戦で思い出すのは、「ふしぎの海のナディア」でレッドノアとニュー・ノーチラス号が戦う場面だ。どちらも、エッフェル塔が根元から破壊される描写がある。
シンジが成長した親友たちと再会を果たすのは、「トップをねらえ!」でノリコが親友のキミコと再会する場面に重なる(ノリコとキミコは同級生だが、亜光速戦闘によって年齢は10歳ほどずれている)※1。また、アスカとマリが群体エヴァへ向けて、ATフィールドを合体させて突入するところは、ノリコとカズミがガンバスターでスーパーイナズマキックを放つ姿を思わせる。
ミサトがネルフ本部への強襲を「なぐりこみ」と称するのも、「銀河中心なぐりこみ艦隊」からの引用だろう。絶体絶命の場面で、起死回生の特攻をしかけるのは、お馴染みの展開だ。
これらはファンサービスであると同時に、これまでのクリエイティブを総括する意味もあったのではないか。

エヴァという作品は、碇ゲンドウとシンジの壮大な親子喧嘩で終わった。新劇場版は、TVシリーズとも旧劇場版とも異なるストーリーであるが、あえて時系列で並べてみると、序と破の途中までがTVシリーズ、破の後半が旧劇場版にあたる。そしてQと本作がTVシリーズの25話・26話にあたり、いったん劇場版に寄り道して、再びTVシリーズに戻ってきた形だ。
だが、旧劇場版で示された「現実へ帰れ」というメッセージも、同時進行で語られる。しかも、「シン・ゴジラ」のキャッチ・コピーでもある「現実vs虚構」というテーマにシフトした形で。
親子の戦いは対話になり、いつしかゲンドウの内面世界に突入していく。

ゲンドウの唯一の願いは、妻・碇ユイと再会することであり、そのために人類すべてを犠牲にしようとしている。しかし、ゲンドウがここまで執着する碇ユイという女性については、ほとんど何も描写がない。コミックス版では、ゲンドウとユイの過去描写があったが、アニメでは初号機の起動実験で消えてしまった場面があるくらいだ。
物語を推進するためのマクガフィンだから、説明不要と言ってしまえばそれまでだが、本作では端役のキャラクターですら、それなりに見せ場があるのだ。ゲンドウの行動の動機そのものであるこの女性について、ここまで描こうとしないのは、むしろ不自然だとも思える。

ここで、「虚構と現実」というテーマを思い起こしてみる。
ゴルゴダ・オブジェクトの中では、虚構と現実の境界は意味をなさなくなっており、二人の戦いはまるで書き割りや撮影セットで役者が演じているかのようだ。ここはいわば、虚構=アニメの世界に浸っているオタクの精神世界そのもので、「現実」は存在しない。
ゲンドウが追い求める「碇ユイ」もまた、彼の心の中にある虚構に過ぎず、それ故に実像としての「碇ユイ」は本編中で描かれていないのではないか※2。

旧劇場版で、最後にたった一人残った他者であるアスカに、シンジは「キモチワルイ」と拒絶されるが、本作における(同じ場面の)アスカは妙にリアリティーがあり、しかも成長して大人になっているようにも見えた。
シンジはアスカとお互いの気持ちを打ち明け合い、決着をつけて大人になる。一方でゲンドウは、自分を受け入れてくれた唯一の女性を失って、いまだ大人にはなり切れていない(子持ちのおっさんなのに!)。だから、父としてシンジとどう接していいのかもわからないままだ。

旧劇場版では、観客はシンジの立場に自分を重ね、作品に拒絶されたと感じただろう。しかし本作では、その役目はゲンドウが背負い、シンジは成長して父を超える。そして、エヴァのいない世界=現実(宇部新川)へと回帰していくのだ※3。

最後にチョーカーを外したところを見ると、世界は一変したが、時間を遡ったわけではなさそう。エヴァ・イマジナリーの力によって、つくりかえられたと見るのが妥当か?ただ、リリスの存在がなければ人類(リリン)も存在しないわけだし、アダムもガイウスの槍ですべて封印された状態?
まだ1回しか見てないので、よくわかってないところもあり。

追記:
※1 第3村で"そっくりさん"こと黒綾波が、村の人々と交流する場面は、なぜ必要だったのか。彼女はシンジが助けたかった綾波レイではないし、綾波レイのクローンの一人に過ぎない。それでも彼女は、シンジに名前をつけて欲しいと願った。
名前は、他者との境界を表す記号であり、名前が与えられることで初めて"個"を獲得できるとも言える。しかし、シンジは結局、「綾波は綾波だ」と答えてしまう。そして、自分だけの名前を与えられなかった"そっくりさん"は、個を保てなくなり、いなくなってしまうのだ(プラグスーツのバッテリー切れが原因であるが、ストーリー上の意味として)。
そう考えると、「名前を考えてくれただけで嬉しい」という言葉は、ひどく哀しい響きをもって聞こえてくる。

第3村は列車の車庫であり、ターンテーブルがある。
列車は、人生や映画そのものに例えられるが、ここはその終着点であり、方向転換する出発点でもある。

※2 そもそも、ゲンドウが求めているのは恋人であり妻であるユイであって、母親になったユイではない。コミックス版では、息子のシンジに激しく嫉妬するゲンドウの姿が描かれる。
また、2次元のキャラを「嫁」「娘」と呼ぶオタクの姿にも重なる。

※3 本作の結末にスッキリした人は、謎や伏線が回収されてスッキリというのもあると思うが、「ハッピーエンドで良かった」というのが大きい気がする。「すべてのチルドレンたちへ、おめでとう」で終わったTVシリーズは、本来そうなる予定だったのだろう(綾波がパンをくわえながら登校するような)。
その意味では、"あるべき姿"に帰着したわけだが、旧劇はあえてハッピーエンドで終わらせなかった。個人的に、あの終わり方(デビルマン・エンド)はより映画的だし、クリエイティブだったと思う。

一方で、本作は「観客と作り手」という視点よりもっとメタな視点から、「現実と虚構」をテーマにしている。アニメ=虚構は、しょせん娯楽に過ぎないのだから、見終わったら忘れるくらいが丁度いい。もし虚構に人生を懸けるのなら、自らがクリエイターになるしかない。
やはり、受け身で浴びるように映像作品を消費するスタイルは、どこかおかしいのだ。エヴァの呪縛から解き放たれても、それだけで「大人になれた」と思うのは早計だろう。


【その他】
・綾波、式波、真希波はすべてクローンなのか。
・惣流は式波のオリジナルとして存在しているのか。
・惑星大戦争、轟天号。群体エヴァのドリル。
・ワイヤーで釣られた戦艦。在来線爆弾かい。
・カオル君はまだ月にいっぱいいる。
・L結界の中って雨とか降るのか。
・パリの要塞都市、ちょっと巴里華撃団を思い出した。
・3D綾波こわい。
・ぽかぽかする。
・エンドロールが長い。2曲分。
・ゴルゴダオブジェクトからのマイナス宇宙は、ウルトラマンエースが元ネタっぽい。
・封印柱に書かれているのって、もしかしてウルトラ文字?
・シン・ウルトラマンに続く。
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