じょにー

シン・エヴァンゲリオン劇場版のじょにーのネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

内容に触れた方がいい文章が書けたので主義に反するけどネタバレ投稿でいきます。
そしてまともに観たのは新劇場版のみ、的外れな考察でもご愛嬌。



私たちはエヴァンゲリオンに庵野秀明を見ている。

心を壊してまでものづくりを続けた1人の男がやりたいことをやり切ってるのを見て心が震えないやつがいるか。ヤマト(トップをねらえ!とか色々混ざってそう)、特撮、安野モヨコ、庵野秀明のすべてのエッセンスがここにある。「私は好きにした、君も好きにしろ」というメッセージが誰しもに聞こえたことだろう。
この映画そのものにも、ゲンドウにも、シンジにも庵野秀明を映し見てしまう。この映画は庵野秀明であるとまでは言わないけど、この映画は、すごく人間だと思う。


では、軽めの考察から。

新劇場版のサブタイに付いていた"NOT"が消えたのは、これまで言われてきたマルチエンド説のように開くことではなく、閉じることを選んだから。物語を看取る覚悟。そういうものに感極まってしまう。
副題のTHRICE UPON A TIMEは日本語訳が難しいけど、しっくり来るのは「一度で三度」。僕の思う三度はアニメ、旧劇場版、新劇場版。つまりここがすべてのリバイバルを行う終着点であると。

個人的に嬉しかったのはミサトさんとのわだかまりが解けたことと、ゲンドウの内面が知れたこと。
ミサトさんはQではあんまりな態度で評判悪かったけど、そういう観客の意識も作品に包括してくれたように感じて。なにより、これだけ話がスケールアップしていく中で、主人公が自立して自分の境遇と向かい合うことで終わりに向かうっていう構造が好きすぎる。
今度はミサトさんからの「行きなさい」ではなく、シンジから言う「行ってきます」、そして「行ってらっしゃい」という回収。オタク好きに決まってるやろそういうの。
「行きなさいシンジくん/誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために」。このセリフの重みがまた変わるのが素晴らしい。
ゲンドウの思うところについては、全くもって普遍的だったからこそよかった。そういうのをエヴァでやるからこそ感じるものがある。

次は、監督の奥さんである安野モヨコさんが投影されてるのは誰か。僕が思うのはマリです。まああんまり外野から他人の身辺の話なんかしたくないので、この辺は各々の解釈で良いよなとも。
真希波・マリ・イラストリアスというキャラはめちゃくちゃおもしろくて、ヴィレにもネルフにもゼーレにも通じ、人間でありつつATフィールドを操ったり、あの若さの秘密はおそらくクローンだと思うし、そしてシンジ(観客/表層/可能性)、ゲンドウ(物語/核心/原因)などすべての要素にコネクトする、ストーリー上でもメタから見ても特異なキャラ。コネメガネのコネはコネクトのコネだ!(物語的にはアスカが裏事情知ってるだけなんだろうけど)
高次元から物語を引っ張り上げるデウス・エクス・マキナ、エヴァにとってのそれはマリだと思うんですよね。彼女は現実に近しい存在な気がする。
冬月の言うイスカリオテのマリアは一言で言うなら裏切りの聖母。物語世界を裏切りシンジを迎えに来る救いの女神だったのかなと。イラストリアスの名は空母に由来するらしいけど明らかにイスカリオテのもじりと取れるし。新劇場版から介入し、過去とは違う収束へ作品を導くための存在だったのかも。
あとはもうフィクションとしての解釈一致の話になるんですけど、あくまで観客じゃなくシンジをマリが最終的に引っ張り上げてくれたように感じたからです。シンジとマリの関係性が好きなんだと思う。物語中ではほぼ絡みがない分余白があるから好き。その関係性の名前は何でもいい。
僕にとってはシンジが庵野秀明の化身で、シンジが自立して自律して救われたことが1番嬉しかった。作り手が幸せになれないと物語だって報われない。これはそういうハッピーエンド。シンエヴァを観た時の幸福感はそこから来てるんじゃないかな。
しっかしこれだけの人が考察してそのどれもを通す度量とバランスを保ってるのとんでもないわ。考察止まらなすぎて困る。笑


最後は作品の全貌的な話。

今回は物語の中で多くのものに救いがもたらされる。キャラクターごと、いつかの展開ごと作品内にコラージュし、オマージュするという演出。シリーズのひとつひとつを開いては閉じるかのような演出には優しい覚悟を感じた。まるで過去を認め、許し、飲み下しながら進んで行くようで、やっぱりこの映画は人間のかたちをしてる。

シンエヴァのなにがおもしろいかを言葉にするのって意外と難しいと思っていて、でもあえて言うなら「時間」なのかなと。僕はコアなファンではなく、高校生のときに新劇:破を観に友達に映画館へ連れて行かれたのがエヴァ初体験だったけど、その経験があって良かった。あのとき観て良かった、そんな風に「時間」を感じた。心の内に湧いたのは感動というより感傷で、だから正しく受け取れた気がして今でも嬉しい。
抽象的な言い方になるけど、無機質なのに暖かみを感じるのは血が巡ってるから。無数の考察に説得力があるのは筋が通ってるから。エヴァは生きてる。
人間らしいかたちをしたエヴァンゲリオンというけものは、25年の時をかけてついに許しと救いを知ったのだ。それを見届けることができて良かった。

ラストシーン、チルドレンがエヴァという虚構から解放される。ならばエヴァンゲリオンは虚構か現実か?
終劇の後の世もエヴァやヱヴァは絶対に終わらない。物語が閉じようと、作品と観客との間はまだまだ余白で満ちてる。もはやこのシリーズは青春とか思い出とかいう一時のきらめきではなく、多くの人生の内に融解し、コミュニケーションのように機能している。エヴァは25年の時をかけてサブカルチャーとオタク(あえてこの言葉を使う)まで救済したんだ。
観測者によって恒久的に発見され、つながり続ける・・・彼と彼の世界はそうやって生きてきたし、また生きていく。
エヴァンゲリオンは虚構でもあり私たちの現実なのだ。

全てのエヴァンゲリオンに、ありがとう。
じょにー

じょにー