もっちゃん

ポンヌフの恋人のもっちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ポンヌフの恋人(1991年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

レオス・カラックスの「アレックス三部作」のラストである。検索してみると「呪われた作品」みたいな言説が流布しているが、中身はそんな怖いものではない。

改装工事中のポンヌフ橋に住むホームレスのアレックスと片目を失明しかけて絶望している女画家生ミシェルとの恋愛を描いたラブストーリーである。アングラの恋、駆け抜ける愛を描いた作品である。

例のごとく、ポンヌフ橋をバックにして打ち上がる花火の描写やそれを背景に酔っぱらった二人が走り回る演出は前作『汚れた血』での演出をほうふつとさせるスピード感あふれる描写である。開放的で印象的なワンシーンである。

そしてもうひとつ今作で特徴的な描写はキャラクターの心理表現である。ミシェルの失明した目から鯛へのジャンプカットや大道芸(火吹き)から飛行機へのジャンプなどはその代表的なものである。極めつけはミシェルの殺人衝動、倒錯を発砲→疾走→行進する兵隊→列をなす戦闘機という怒涛のモンタージュによる演出によって表現している。これらの方法はもともとゴダールが得意とするものであったが(最近ではゴダールに影響を受けたグザヴィエ・ドランなどが多用している)。

今作における「視力を失った女」ミシェルは何を表しているのだろうか。画家である彼女にとって視力の喪失とはつまり死を意味する。それは悪夢である。しかし、彼女は気づく。失明しなければ、アレックスに出会うことすらなかった。そして視力の回復=アレックスとの別れなのである(もともと上流階級である彼女にとってはアレックスと出会うことすら不可能に近かった)。

「視力」とは何を表しているのだろう。当初、彼女は見つめられることを拒んだ。河畔でアレックスの肖像画を模写していた彼女は「私のことは見ないで」と告げていた。画家である彼女はあくまでモデルを一方的にまなざす存在であったのだ。

しかし、視力の回復によって彼女は「見つめられる」ことを望む。愛を望み、視力を欲した彼女は結局「まざされる」ことを渇望したのである。見えなかった時には「見る」ことを欲したが、見えるようになると逆に「見られる」ことを欲するというのが今作の深いテーマであるようにも思う。飽くなき愛への渇望こそが監督の皮肉なのではなかろうか(いろいろとプライベートでも恋愛関係で大変だったようで)。