新潟の映画野郎らりほう

僕だけがいない街の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

僕だけがいない街(2016年製作の映画)
2.0
【今際の回り灯籠 】


被虐し帰宅躊躇う少女が、小高い空き地で独り佇んでいる。そこに少年が近付き、少女のその傷付いた心に寄り添おうとする。ワイドスクリーンそれぞれ両端で向かい合い立つ二人は 徐々にその距離を縮めてゆき、最後に互いの掌を密着させる。その瞬間、その重ね合わせられた掌へ陽光が照射し 強いハレーションとなって映し出される。
~二人の関係性の視覚的距離化、そして最接近時の祝福的陽光の用法等、やらんとしている事は解る。

であるならば、独りで佇む少女のカットを 何故青々とした晴天にするのかと。
燦々と眩く降り注ぐ陽光が、積雪の白に依って反射され より一際明るく輝いている。
少女の心象とは裏腹な[場違いな暖かい画]に脱力する。
そこは曇天寒空に依って少女の冷え切った心を顕現するべきではないのか。
然すれば その後の陽のハレーションが、より暖かい特別な瞬間として 一層引き立ったであろうに。

誕生日会も然り。暖かな室内で暖かな想いに接する。その暖かみの対比となる孤独/屋外の寒さ/暗さの表出が決定的に弱い。
照明設計は総じて頓珍漢な印象だ。


ドリーイン、ドリーバック、クレーンショット、狭小室内に於いてもティルトで上下させる等、本作のキャメラは常に何かしら動き移動している-フワフワと-。
そしてキャメラは、終盤 石田ゆり子や有村架純の上へと舞い上がり 彼女達を〈見下ろす〉わけだが、つまりそれ迄のフワフワと動きまくるキャメラはその予兆であった事が理解出来る。

加えて、見上げる/見下ろす〈視線/位置〉と、掴む/差し出す/繋ぐ/触れる/陽に透かす〈手〉のモチーフも 幾度も〃も登場するわけだが、キャメラの動きも 頻出するモチーフも『過度に行うと逆効果』となってしまう事を先ず識るべきだろう。
対照化して映し出すのは2、3回に留めた方が効果的で、しつこく繰り返すべきではない。つまりクドい。
何度もリバイバル - 繰り返さねば理解出来ぬ悟(藤原)と違い、生憎此方は(構成や技法から)趣意が早々に読めているのだから。



主題論としては『過去に囚われる者は 現在、そして未来を生きる権利を喪失する』の殷鑑遠からずな訴求。
映画に整合性なぞ端から求めていないが、物語論としては キャメラのフワフワとした動きと最期の舞い上がり、見上げる/見下ろすのモチーフと“回り灯籠”の様に繰り返される映像から『全ては今際の走馬燈』と見る事も出来るだろう。




《劇場観賞》