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クリーピー 偽りの隣人のStroszekのネタバレレビュー・内容・結末

クリーピー 偽りの隣人(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

面白かった。

高倉教授が「俺は犯罪者を御せる、プロファイリングできる」、と考えているのに結局二度も痛い目に遭う。西野に関し、「虫も殺せない奴だろう」と言っていたが、サッサと西野家の母親を撃っていたのでそれも違う。自己を過信していた人物が、ことごとく裏切られる話であり、その最たる裏切りは最も身近な者からもたらされる。

竹内結子演じる妻に関して言うと、大学教授の西島秀俊が夫で関東の一軒家住まいで自分は料理が上手くても不幸が訪れる、というのが肝か。凝った愛情料理を作っていた彼女が、緑の扉の半地下に幽閉されたのち、クラッカーを貪り食う場面が最も恐ろしかった。


「自分だけは大丈夫」と思っている人間、知性、力、地位、容姿で最高位にあると思われる人間が、ああも軽々と、暗い目をした小汚い隣人にやられてしまうとは。恐ろしい。

「家族同士を殺し合わせる」のが西野の常套手段らしいが、最後に高倉が放った何発かの空砲は、家族が西野に蹂躙されるに任せ、そして自分の妻を巻き込んだ西野家長女に向けられていたのではないか。

日野市の一家三人失踪事件の詳細は結局明らかにならなかったので、原作を読まねばなるまい。

香川照之は不気味可愛い。

追記: やはりどう考えても、家族三人の行方が分からないで苦しんでいる女性の証言に対し、目を輝かせて「興味深いですね!」と言ってしまったり、「家族はどこかで生きてるんでしょうか…?」と一縷の望みをかけて聞いた彼女に対し、軽々と「生きてると思いますよ、どこかで」と(行方不明の家族などには少しも関心がないために)即座に断言できてしまう高倉が最も狂っている。「趣味ですが、真剣です」なんて、まともな神経をしていたら犯罪の当事者には言えない。 つまり、高倉は「犯人が生み出したカオスに秩序をもたらす存在としての探偵」ではなく、彼自身狂気を宿した人間である。そういう意味では『CURE』で役所広司が演じた刑事に通ずるものがある。

追記2: 「連続殺人犯には秩序型、無秩序型、混合型があり、三番目は全く予測できない」と言われていたが、西野はコの字型の住宅配置にオブセッションがあるので秩序型なのではないか。

追記3: 川口春奈を西島秀俊がインタビューするシーンで、ガラス窓の向こう側で女子学生3人と同席している男子大学生が振り返って川口春奈を見てニヤッとする瞬間がある。あれは監督の意図的な演出だとしたら不気味すぎるし、意図してないのだとしたら映画の魔を感じる。「これが映画の撮影だということを知っている視線」、よく撮れたなあ。

追記4: 最高にコント感を感じた描写→ 普通の家屋に『悪魔のいけにえ』の精肉室のような重い緑の扉。笹野高史が落とし穴に落ちる→終盤に主人公の「これがお前の落とし穴だ!」というセリフ。比喩的にじゃなく、本当の落とし穴を出した上でこの台詞を言わせるとは…。

追記5: 高倉の妻に関する描写や「いろんなことを諦めた」という台詞から類推すると、おそらく彼女は事件前に、完治が難しい精神の病を抱えていたのではないか。だから西野が「心の病気」と評した彼の妻にわざわざシチューを持って会いに行ったのだろう。おそらく彼女が西野を信用した理由も、「この人は鬱病の奥さんを支えるいい人」というものだったと考えられる。そして、西野(と彼の覚醒剤)は、そういう心の隙間につけこんだのだろう(「妻にもこの注射が効いたんですよ」とか言ったのでは)。したがって、「彼女の料理好きにつけこんだのか?」という高倉の台詞は、彼が西野よりも彼女のことを見ていなかったことの証左となる。

追記6: 原作を読み、映画の方が「完璧なコントロール下に置くために、家庭内で殺し合わせる」という要素がうまく描かれていることが分かった。原作本よりも北九州や尼崎の一家監禁殺人事件を参考にしているのではないかと思う。

[鑑賞メーターから転載]

2016年。原作は前川裕の同名小説(初版2012年)。禍々しいお隣さん系ホラーだが、刑事コントのようでもあった。まるで吸い込まれるように西野家に刑事達が足を踏み入れる様子は、コントで言う「天丼」のようである。誰でも一つや二つは暗部を抱えており、その弱みにつけこむのが非常に巧みな人間はいる、という話。西島秀俊演じる高倉教授も犯罪に対する病的な関心という欠陥を抱いており、ときにはそれが暴力という形で表れる。およそいちばん狂っていると思われる人物が高倉に関し「いかれてるな…」と愚痴る箇所で思わず笑ってしまった。

[鑑賞メーターから転載 鑑賞日2017年12月31日]

2016年。原作は前川裕による同名小説(2012)。原作のおっさんファンタジー(大学教授が自分の指導学生との恋愛を妄想)はなくなるが、妻との意思疎通が段々と成り立たなくなるという別の形で、男性的な傲慢さの崩壊が描かれる。原作では妻との関係がほとんど後景に置かれていたのに対し、映画でそれを主題としたのは監督の作家性だろう。「他人の家庭に入りこむ」西野の誘惑手段が人間的な手練手管ではなく、薬物使用という非常に分かりやすい形になっているのは、本質的にはこの作品の関心が悪漢ではなく夫婦関係にあることの表れでは。
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