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レディ・プレイヤー1のSQURのネタバレレビュー・内容・結末

レディ・プレイヤー1(2018年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

期待外れだった。
この映画は未来のゲームとともに、未来の思想も描いていくくれるだろうと思っていた。
しかし、この映画が描いていたのは、今でさえ古臭い考え方だった。

例えば、彼らはリアルでエンカウントした時にアバター名ではなく、自分の本名を明かす。
しかし、今でさえそんなことは誰もしない。どんなに親しい仲であってもオフ会で本名を晒したりはしない。それは、必ずしも相手を信頼してないからではなく、リアルな世界の名前よりもバーチャルな世界における名前の方がより自分の本質を捉えているからだ。
この描写を見るだけでも、この映画において、バーチャルよりもリアルの方が優位だと信じてることが良くわかる。

アバターの本当の姿が酷かったら?という問に対して、単なるアザがあるだけの美女というのも若干残念だった。
むしろ中身男でも良かったと思うけど。

さらに、終盤になると、直接「リアルの方がバーチャルよりも勝っている」という発言が出てくる。それも割と唐突に。
今までは、ゲームを金儲けの道具としてしか見ていない奴らをぶっ倒せ!というノリで戦ってきたはずなのに、いきなり現実がいいとか言い始める。
いったい、どこを根拠に現実の優位を主張しているのか見ている限りでは全く分からない。

極め付きがラストの主人公の決定で、バーチャルよりもリアルの方が大事だから。毎週2日はゲーム禁止デーを儲けるらしい。
ゲームは一日1時間までみたいなルール。
好きな時にゲームさせてよ……。



ここまで考えると、この映画は意味不明な現実讃歌を唐突に謳いだすクソ映画なんじゃないかと思ってしまう。
しかし、ここで少し考え直してみる。もしかして全て"わざと"なんじゃないか?

曜日によってゲーム禁止なんてどんな馬鹿でも考え付かないクソルールだ。だいたい「ルールは破るためにある」的な発言が既に出ているにも関わらずルールを設けている。

そもそも主人公たちはゲームを愛していない。彼らがゲームをするのは復讐のためであったり、生活のためであったり、誰もゲームを楽しむためにゲームをしていない。

主人公はゲームをするよりも女と抱き合ってキスする方が良いと思ってるタイプの人間だ。
そんな考え方時代遅れだ!ゲームの中にはもっと魅力的なものが詰まっている!(これについては賛否両論あるだろうけど)

リアルで人と関わるのが苦手な人のために作られたゲームが結局、リアルでの人間関係が得意な人によって継がれる。
主人公たちは、創始者がどんな願いを込めてオアシスを作ったのかまるで理解してない。

そう、この映画はおそらく、主人公を盲目的に支持してはいない。
バーチャルよりも現実が良い、という思想に疑問を投げかけている。

作中で「バラのつぼみ」という言葉が出てくる。
「バラのつぼみ」は絶対的な権力者が持つ見つけ出してほしい秘密の象徴だ。
作中では、ゲームの創始者が隠したイーストエッグを指している。
しかし、「バラのつぼみ」にはメタ的なメッセージが込められているのではないだろうか。
つまり、スピルバーグがこの映画に隠した"イーストエッグ"。
仮想より現実の方が優れてるなんて考え方は間違っている、というメッセージだ。

見ていて気になったセリフがあった。
「あなたはアバターですか? 違う。あなたは死んだのですか? そうだ」
このやり取りには、私は確かに死んだ、しかしゲームの中で私は確かに"生きている"という主張が込められていたのではないだろうか。
リアルの良さを主張する裏で曖昧にメッセージを込めている。


独裁者によって支配されていた世界で革命を起こし、そして新たに頂上に収まったのは別の独裁者だった。
オタクにとってのディストピアはまだまだ続く。
それがレディプレイヤー1の世界だ。

しかし、話はこれで終わりではない。
本当にうだつが上がらず、ゲームの中でしか生きる歓びを見つけられない、それでも精一杯ゲームを愛している者達の、決して主人公にはなれない2P側の者達による逆襲の物語。
レディプレイヤー2は必ず作られる。
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