まっつん

レディ・プレイヤー1のまっつんのレビュー・感想・評価

レディ・プレイヤー1(2018年製作の映画)
3.6
史上最大のクロスオーバー。あんな人からこんな人まで出てきてうわぁ!っていう映画でした笑。

まず本作をスピルバーグが監督することになった経緯が非常に重要だと思います。原作ゲームウォーズ及び本作の脚本を担当したアーネストクラインは「80年代オタク文化に耽溺してきた生粋のオタク」であります。そしてゲームウォーズを読んだ時にスピルバーグは「これ自分が監督しないと作中で自分のことが言及されて恥ずいかも!」と思ったから監督したと。これすごく重要で要はアーネストクラインら脚本チームは80年代カルチャーに「耽溺してきた側」、そしてスピルバーグは80年代カルチャーを「根本から作り上げた側」であるということです。つまり正直脚本家チームとスピルバーグとの間のテンションには決定的な差が存在しているわけです。だってスピルバーグはガンダムにそんなに思入れがあるとは思えないです。だからこそ80年代カルチャーに精通していない「非オタク」の方々でも問題なく楽しめる風になっていると思います。

そして正直本作は「あれ?ちょっとスピルバーグ今回手抜いてる?」と思っちゃいました。なぜかと言うと僕の予想では本作は「ポストモダン的な文化状況に対してのスピルバーグなりの批評」になると思っていたからです。しかし、そうはならなかった。スピルバーグ自身はそういうポストモダン的な作風からは自覚的に距離を置いてきたと思うのでそれなりに言いたい事もあるように思うのですが。ポストモダン的な作風とは何かと言うと、「キャラクター達が記号に置き換えられ、その上での順列組み合わせで楽しむ」というものだと思います。つまりはクロスオーバーであると言えます。(クロスオーバーに限らずシン・ゴジラなどに関してもこの傾向は見られると思いますが。)キャラクターという物はストーリーという「本質」の一部であるにも関わらずそれが「表層」として記号化されて後は順列組み合わせ。しかし僕自身もこの傾向を真っ向から否定、批判できる立場では全くないのが辛いところ。自分もそういった作品の楽しみを存分に享受し耽溺しているから。だってMCUとか好きなんだもん。しかし、MCUと本作ではクロスオーバーの規模、射程の広さが違うので一概に同列に語ることは難しいし、本作が単体映画であるのに対しMCUはユニバースであると言うのも実は大きな違いである、と言うエクスキューズはつくと思います。個人的にはこれだけ大規模な究極のクロスオーバーはちょっと乗れないかな。

あとは「ネット上で知り合った人と現実に会ってみる」問題に関しては完全にスルー。そこが一番ネットの厳しいとこだと思うんですよ。容姿端麗なアバターを使ってた人がリアルで会ったらただのキモオタだとかね笑。めっちゃあると思うんですよ笑。でも本作はまんまと美女と知り合いやがると。挙げ句の果てに「顔のアザを気にするとでも?」ってセリフにちょっとイラッとしたりもして。なんでウェイドはサマンサが自分を受け入れてくれる前提でジャッジしてんだよテメェとか思いましたよ。

そして最終的に示される「現実も大事にしましょう。」というメッセージ。これは「電脳化したハリデーが二度と戻れない現実の大切さをウェイドに伝えた」っていう事で解釈しているんですが、このメッセージ自体「余計なお世話感」がするというか、現実なんて認識論なんだからその捉え方は人によって違うし(客観的事実に対する視点の持ち方という意味で)、大体「現実を見ろっ!」なんて言う人は「俺の見てる現実はお前の見てる現実よりも優位である」という事を言いたいだけだったりする場合が非常に多いと思うんですよ。しかし、本作は非現実の電脳世界を別に断罪してないというか、電脳世界があったからこそ現実に現れた美しい魂が描かれているので「余計なお世話感」があまり無いんですよね。これはスピルバーグが本作に対して取っている距離がプラスになったのかなぁなんて思います。