ぴのした

ノクターナル・アニマルズのぴのしたのレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
4.1
とんでもない映画である。精神的にやられる系だけど、圧倒的な構成と作中のアーティスティックで不気味な雰囲気、解釈の余地を持たせる深みに、見る人を引き込む面白さがある。

金持ちの夫と上流階級の暮らしを送るスーザン。ある日、元夫から「君に贈る」と称して暴力的な内容の小説が送られてくる。優雅なスーザンの暮らしを不気味な現代アートとともに描く現実のパートと、妻子が目の前で拐われて殺されるという暴力的な小説パート、そしてスーザンと元夫の過去を振り返る3つのパートが重層的に描かれる。

「うへぇ、」って顔になること請け負いの、どぎついオープニングからすでに引き込まれること間違いない。作品中に散りばめられた美しくも不気味なアートが作風が作り出す独特の雰囲気も素晴らしい。

ここからはネタバレなので注意。

予告編を見るだけでもすぐわかると思うんだけど、この映画は赤の色遣いがすごく印象的で、家の壁紙やソファ、ベットなど、血のような濃い赤色が繰り返し登場する。

小説世界で殺された妻子が横たわるのも真っ赤なソファで、小説の主人公が人を殺す前、赤いライトに顔を照らされることから、この赤が暴力を象徴するのはなんとなく明らかなんだけど、この赤はスーザンの抱える物質主義やリアリズムを象徴しているようにも思える。

元夫エドワードと喧嘩するときもスーザンは赤いソファに座り、金持ちになってからは赤い壁紙を好む。この赤の解釈を含めて、映画自体を自分なりに解釈してみた。

一見するとあんまり小説の中身が現実の比喩になっているようには感じにくい。

妻子を殺される小説の主人公トニーがエドワードを表すのはわかりやすいんだけど、そのほかの登場人物は現実でいうと誰に当てはまるかがわかりにくいからだ。

ぼくが考えたのは、妻子を奪うゴロツキはスーザンの新しい夫かつ、物質主義に囚われたスーザンの側面で、奪われてしまった妻子はアーティスティックなスーザンの側面だと理解するとわかりやすいように思えた。

つまり、スーザンをエドワードから奪ったのはスーザンの中にある物質主義であり、奪われたのもスーザンの一部だった。だからエドワードは現実でスーザンの前に現れなかった。今のスーザンはもうかつてのスーザンではないし、失われてしまったスーザンはもう取り戻せないからだ。

この復讐劇が復讐劇たるには、エドワード自身が「赤」に染まる必要がある。すなわち小説の中では暴力を行使し、現実では作家になって物質主義の尺度でも「勝ち組」になり、そしてその小説でスーザンの心を動かす必要があった。

結果スーザンは心を動かされ、婚約指輪も置いてエロい服を来てエドワードに会いに行く。そんなスーザンを突き放したのは、自分からかつてのスーザンを奪った、今のスーザンから、大切な人を奪う悲しみや絶望感を味あわせるため…。ラストシーンを見て、そんなことを思いついたとき、この映画が復讐劇なのだと改めて気づかされてゾッとした。小説が現実を忠実になぞっているとしたらもしかするとエドワードは自殺していたのかもしれないい。

何はともあれ、映画自体がハラハラドキドキで時間を立つのも忘れる面白さがあって、小説を映像化して重層的に描く巧みさ、作中の雰囲気、そしてこの解釈の余地を残す面白さ、どれを取っても素晴らしい。ぜひ見に行ってください。