Daisuke

ノクターナル・アニマルズのDaisukeのレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
4.2
[過去と幻想を見ながら、眠る]

※またじっくり書いたので長いです。
※後半、ネタバレ全開で「ラストシーン」について自分なりの解釈を書きました。ここからと書きますので鑑賞前の方はそこまでにしてくださいね。

目次

はじめに
1、冒頭
2、小説の中には(前おき)
3、小説の中には(本編)※ネタバレ
4、愛なのか、復讐なのか、それとも
終わりに


[はじめに]

自分の恥ずかしい映画の感想をYoutubeやFilmarks に置いていると、ありがたい事に時折「この作品も見てみてください」と自分が好みそうな作品をオススメしていただける時がある。今作もそのひとつで、あらすじからとても興味を引いた作品だった。

[冒頭]

この作品はとても面白い構造をしていて、アートギャラリーを経営しているスーザンという女性を主軸に、「現在」「過去」そして元夫であるエドワードから送られてきた「小説」それらが、交錯していくような作りとなっていた。

冒頭、全身に肉をつけた女性が踊り狂っている。中々に強烈なヴィジュアルから始まるが、私はすでに「ある問い」をぶつけられているかのような気さえしていた。
それはファッションデザイナーとして美を追求してきたトム・フォードから「どう見える?これは美しい?それとも醜い?」
と。
と、いうのもこの映画の原作をトム・フォードが大幅に変更し映像化したとの事で、おそらく原作者の心よりも「トム・フォードの心」が大きく入り込んだ作品なのだろうと推測したからだ。

アートギャラリーを経営しているスーザンは、夫婦関係がすでに破綻していることも序盤でわかる。そんな中、元夫のエドワードから「夜の獣たち」という題名の小説が届く。この暴力的な小説に彼女は惹かれて行き、小説の内容と過去の回想、それらが現在の彼女の中を入り乱れていく。

この小説の内容は、あきらかにエドワードがスーザンへ向けた「何か」ではあるが、明確には提示されていないように見えるため、ラストシーンも含め、それは「愛」なのか「復讐」なのか、といった議論は尽きない事だろう。
こういったオープンな映画は、映画評論家たちが「これはこうだろう」と言い、それが正解のように世の中を回るけれど、私は「個人的にこう思う」という方を大切にしたいため、あくまで自分の視点で書いておこうと思う。

[小説の中には-前おき-]

絵、小説、音楽、演劇、映画、なんでもそうだけれど、何かを作る時、そこには商業的な部分があったとしても、多かれ少なかれ「自分自身」が入り込む。その濃度が強いものが芸術として「強度の高いもの」だと私は思っていたりする。
特に「物語」がこの世に存在する理由として特に大きな要素は「私はこう思った」という自己の表明であると思う。
弁論のような直接的な表現ではなく「物語」という形式を使うのは「現実であったこと」を様々な意味や意図と一緒に閉じ込めるため「重層的」な役割を作るためだ。
そして重要なのは、なぜそういった物語を作るという行動を行うのか、それは生命が必ず「死」という絶対的な終焉が待っているからだと思う。

ちょっと話が飛躍しすぎたので映画の話に戻そう。エドワードが書いた小説の中には、やはりエドワード自身の体験が描かれていた事がわかる。しかし、これは前述の通り直接的に表現したのではなく「様々な意図」を重層的に見せるためにフィクションという物語の構造をとっている。
では、なぜそんな事をしたのだろうか?




---ここからネタバレ----------------




[小説の中には-本編-]
エドワードの小説には、

トニー(主人公)
その妻
その娘
襲ってくる者
ボビー警部補

こういったキャラクター達が登場する。
トニーはある衝突事故から妻と娘を誘拐され、レイプされたのちに殺されてしまう。
そしてその事件を末期ガンで余命数ヶ月のボビーと追い、正義という名の復讐をしようとする。こんな物語だった。

この小説の中には、
「モデルとなった者」「実際に起きた事」
「エドワード自身」の三つを分解して『夜の獣たち』という一冊の小説を書き上げスーザンへ送ったと推測できる。
まず「モデルとなった者」は、トニーは主人公であるため、やはりエドワード自身だろう。そしてその妻はスーザンであり、娘は、見る事ができなかったエドワードの娘である。
「実際に起きた事」、これはスーザンが不倫の末にエドワードの子供を堕した事が大きな出来事であり、エドワードは「愛していた妻を失った」「自分の子供を失った」という「損失感」を誘拐されて殺される小説の物語として再構築していたのだと思う。

そんな小説を元妻スーザンに送るエドワードの動機が気になり始めたころに、劇中ではこれ見よがしに壁に大きく「復讐」という文字が描かれていた。しかし、これは本当に復讐なのだろうか?「おまえにこんな事をされて苦しんだんだぞ!」と。
確かに序盤、紙で指を切るスーザンのカットがある。これは示唆的で「これから紙(本)によってケガをするかもしれない」という風にも見える。
しかし、私は何かそれだけではないような気がしていた。この「復讐」という文字は、冒頭の踊り狂う女性と同じく、これは「復讐だと思うかい?」といった、トム・フォードからの問いをまた投げかけられているように感じていた。

[愛なのか、復讐なのか、それとも]

この映画のラストシーン。
スーザンは指定のレストランへ行くと、何時間待ってもエドワードは来なかった...

このシーンを表面だけ見てみると、
小説の内容に深く感動したスーザンは、心踊りながらレストランへと向かうが、その踊る心をバッサリと裏切る。エドワードは自分がスーザンにやられた「損失感」をスーザンにもわからせるための復讐だった。こんな風に受けとる事ができる。

しかし、私はただシンプルな復讐だけではないと感じていた。彼の書いた小説にすべてのヒントが隠されているはず。私はもう一度整理してみた。

トニー(=エドワード)
その妻(=スーザン)
その娘(=スーザンに堕ろされた子)
襲ってくる者
ボビー警部補

襲ってくる者とボビー警部補は、一体誰をモデルとしたのか。これらを考えていたら、私はひとつの考えに着地した。
物語の中の「主人公を襲う者」というのは、抽象的に捉えれば「苦しみ」や「災厄」といった自分には来てほしくなかったものだ。と、なるとこれはやはりスーザンの浮気相手や、さらに言えば二人の関係が悪くなる後半における「愛せないスーザン」そのものではないだろうか?

そう、そうすると何もない乾いたテキサスの荒野というのも、エドワードの損失感からくる心象風景として見えてくる。

ではボビー警部補とは?
主人公を常に助けてくれる登場人物。
現実にはもうそれに近い登場人物が存在しない。
一体誰なのか。
いや、書き手である主人公に自分を投影した物語における「助けてくれる者」とは、それはやはり「自分自身」ではないだろうか?ボビー警部補とは、これもまたエドワード自身であると仮定する。
そして、エドワードはスーザンの回想シーンである過去で「物語の中における愛」について語っていた。永遠の物語の事を。
そして人は物語という構造をなぜとるのか、それは前述した

『それは生命が必ず「死」という絶対的な終焉が待っているから』

ここから私はひとつのストーリーを思い浮かべた。

末期ガンとわかったエドワードは、最愛と憎しみを合わせ持つスーザンへ、一冊の小説を書くことにした。そこには自分に起きた事を、数人のキャラクターに入れ込んで書き上げた。それは、彼女に自分の損失感を知ってもらい復讐をしたかったからではない。自分が今まで書けなかった小説を使い、愛という欲望、苦しみ、その刹那の心を「物語」という「永遠」に閉じ込めたかったから。
スーザンがレストランで待っている頃、エドワードはすでに亡くなっていたのだ。

スーザンがベッドに横たわり目を閉じると、過去と幻想のエドワードが、いつまでも映り続けるのだった。

罪悪感と幸福と、共に。

[終わりに]

自分の陳腐な感想を長々と読んでいただきありがとうございました。
映画評論家の方や、素晴らしい感想を書いてる方々の意見も目にしましたが、やはりこういった映画は、まず自分自身と向きあって考えてみるのが楽しいですね。

それにしても今だに謎が解けないことも、、、そもそも、この映画は、、、


それでは、また。
Daisuke

Daisuke