幕のリア

20センチュリー・ウーマンの幕のリアのレビュー・感想・評価

20センチュリー・ウーマン(2016年製作の映画)
4.8
劇的なドラマは無くとも、示唆に富んだ言葉が対話を必要最低限なものとし、豊穣な人間関係を鮮やかに彩る。

ニクソンやカーターが大統領を務めていた70年代のアメリカ。
世界大戦は遠い昔話、
冷戦の脅威も慢性的で、もはや恐怖ではない、
ベトナム戦争もようやく終結し記憶の片隅に追いやられ、
扇情的な政治と経済に踊らされる時代の手前、
国も市井の人々も、どことなく足元の覚束ない。
そんな時代背景を舞台とした意図を感じた。
劇中で流されるカーター大統領のテレビスピーチの思念的で諦念に満ちた理想論が空しく虚ろな時代の空気を象徴的に映し出している。

誰でも操れるツールを通じて、無駄な言葉や情報が洪水のように溢れる現代の対比として、我々が思う便利さなどを知らない登場人物が過不足なく語り、感じ、生きていく。
その姿はより雄弁で美しい。

様々な文献の含蓄ある一節とそこから導き出される思索。
LAパンクやNYニューウェーブ、メジャーとは言えないが若者に圧倒的な影響を与えたカウンターカルチャーとしての音楽シーン。
当時の風俗を切り取った写真の数々。
ともすれば、浮ついた表現になりがちだが、この時代の空気と登場人物にとっての現在に対して、リアリティーを高める小道具としてだけでなく、疑似体験以上の感慨を鑑賞する者に与えてくれる。

母と息子はいても、同じ屋根の下で呼吸する五人の登場人物の関係も擬似家族かのよう。
多くの言葉を交わすことはなくても、彼らの対話が漏れなく彼らの刹那と未来にとって欠かすことの出来ない養分のように全編に染み渡る。
人生で多くの人と深く関われる訳でない。
擬似家族という表現は誤りか。
彼らはお互い欠くべからざる一つ一つのピースであり、丁寧に各人を描く事によって、誰かに肩入れさせるような稚拙な表現を今作は毅然と拒否していた。

音楽も素晴らしいが、登場人物のファッションが秀逸。
簡単に「オシャレ」と片付けられないのは、彼らが語る言葉や取る行動同様に、そこにまごう事なき主張があるからだ。
大事な蔵書の装丁や大事にしているレコードのジャケットを愛でるように、素材感、色、ボタンの使い方、襟の開き具合、プリントや先染めチェックの絶妙な意匠性などを彼らが深く自分を表現出来る手段として、それらの衣服をさもパートナーのように扱っているのがまばゆい。
頻繁に衣装チェンジが繰り返される中、お気に入りが再び別のシーンで登場する。
着回しローテではなく、生活の相棒として、丁寧に言葉を選ぶかのように、衣服をまとっている。
いつの間にか全国に隈なくある郊外モールに漏れなく出店しているそれとなくオシャレな量販ブランド。
それなりに組み合わせれば、ダサく見える事はないし、全身着替えても2万円もあればお釣りが来ることも。
美味い、安い、早い、本当にそうなのか?
不味いもの、高いもの、手に入らないもの、の本質を考えてみてもいい。

ウィットでもない、スノッブでもない、ユーモアでもない、シニカルでもない、思慮に溢れた文節の数々。
今日はここまでにしておいて、次また観る機会に
どんな気付きが得られるか楽しみにしたい。

いつまでも見続けていたい気持ちに引き摺られながら、ややステレオタイプなエンディングではあったが、意図的なものだろう。
彼らが共に生活した何気無い日々を美しく夢のように炙り出していたから。

2017劇場鑑賞62本目
幕のリア

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