つちのこ

帰ってきたヒトラーのつちのこのネタバレレビュー・内容・結末

帰ってきたヒトラー(2015年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

凄く評価が難しい、と感じているのは、おそらく私の理解力が乏しいことに起因しているのだと思う。

最初はコメディだと思って観てるんだよ。クリーニング屋で下着まで洗ってもらおうとして断られ、別の店舗でトライ → 断られる → ゴリ押しで押し付けに成功!

でもこのクリーニング屋の店員さんが、ヒトラーの時代にはいなかったであろう国からの移民 (最初のクリーニング屋さんはドイツ人だったんだろう) で、「何時に受け取りに来るか?」というのを正しいドイツ語で言えない。

ヒトラーは自分が排除しようとしていた移民にお世話になるしかなく、また、ドイツ人 (おそらく) のクリーニング屋は頑として下着を受け入れなかった、というのも面白い。

構成をよく分っていなかったのだが、どうも現代人へのインタビューに関しては一般人のリアルな感想らしい。

「移民について NO と言えない。我々には過去のことがあるからね」と言うあたりで、あぁそうか、やっぱり気にしている… せざるを得ないんだろうな… という感じでした。

その過去のことがあるせいか、日本と比べたらドイツは難民受け入れに積極的で、それだけを知った私の印象は「素晴らしい」だった。

また、その効果か低下し続けていた出生率も上がっているとのことだった。しかし、ケルンでの大事件などの問題も抱えるようになった。

本当の本音は、「移民に入ってきて欲しくない」という気持ちを抱えているドイツ人が、たくさんいるのだろうな。

日本ではどうだろう。

日本では難民受け入れを積極的におこなっていない。ケルンでの大事件などのニュースを知ると、とても怖いと思う。
もちろん事件を起こすのは移民だけではないし、純日本人だとしても、人間とは思えないくらい残虐な事件を起こす人物もいる。

ネットの書き込みを見ていても、近隣の国のことを叩く書き込み、それを擁護する書き込みもたくさん散見される。

前に「(息子に頼まれて某隣国の料理を作ったことに対し) なんで私があんな国の料理作らなきゃいけないの」という書き込みをネットで見かけてビックリしたが、それを擁護するコメントが多くついたことにもビックリした。

確かに、私も海外や国内で、「えー!?」というマナーの近隣国の人達に出会ったことはある。しかしそれは、「個人」以上の「国民性」という問題なのかどうかは検証が必要である。

日本人は「礼儀正しい・親切」とよく言われるが、普段生活していてそんな日本人、どれだけ周りにいるだろうか? と、以前から疑問に思っている。

先日、それぞれ用があって某コンビニに連続で 2 回行く必要があった。1 店舗目は、めちゃくちゃニコニコしたカタコトの日本語を話すインド人? 女性が対応してくれた。時間はかかったが、非常に愛想のよく愛らしい女性で、朝から楽しい気分になった。

この直後に行った店舗で対応してくれた店員さんは、日本人だと思われる。(自身も新人だったようだが) まだ慣れない新人さんに怒りを剥き出しにし、私に理不尽な要求をした挙句、私に渡すべき控えを渡し忘れ、2 時間後に気づいて取りに行った私に謝罪もなし。

ミスはいい。誰でもする。しかし自分がした (しなかった) ことで相手にどんな時間や工数がかかったかを思いやれる想像力もないのなら、特に接客業は向いていない。これに新人かどうかは関係ない。(「生まれたばかり」という意味での新人なら仕方ないが、25 歳前後で「想像力の研修中」はない)

あまり人と関わりたくない (というか単純に速いからだが) タイプなので、必要が無い限りはセルフレジを利用する。
セルフレジがない場合は有人対応してもらうが、最近はコンビニだけではなく、色んなお店で海外からの従業員が増えているように思う。概してみなさん、気持ちのいい接客をしてくださる。

性格がクソみたいな日本人なら、いらんのだ。

先日、沖縄の某ラーメン店で「日本人お断り」にしたら炎上したというニュースがあったが、店主の気持ちはわからなくもない。だがやり方はうまくなかったと思う。しかし、その人のお店なんだから自由にしていいのではないか? それで日本人が来なくなって潰れようが、その人の自由だし決めたことなのだから、行きもしない日本人が叩くことでもない。
意外と、「そんなマナーの悪い客が日本人にいるはずがない。(某隣国) 人だろ?」などという書き込みを見たが、こういう思想が一番危険だと思う。
マナーの悪い日本人なんかいくらでも目にするし、(海外でははっちゃけるせいか) 海外では特に顕著だと思う。

最近の若い世代の子は幼少期からインターネットに触れられ、考え方も柔軟性や多様性に富んだ子が多いのではないかと推測している。

「日本人至上主義!」の割合が若い子の何 % を占めるかは分らないが、どうか偏った考えにならないことを願ってやまない。


あ、話を戻さないと。
ヒトラーが言う「私は人々の一部なのだ」は、まさに真理なのだろう。
人々の中にある小さな不満を呼び水に、それがどんどん集約されて顕在化されて、それを非常に上手く扱う男に先導・扇動された。
その小さな不満は段階を経て極端に肥大化されてタブーを打ち破り、ユダヤ人迫害という悪夢が実現されただけの話で。

これにドイツ人とかあまり関係がないのではないかと思う。大地震や隕石衝突と同じように、「タイミングと条件が揃えば壊滅的な何かがいつか発生してしまう」ことが「1930 年代」の「ドイツ」で起こっただけなのではないか、と。

ドイツ人でもなく、羨望の的になるユダヤ人を目にする機会が殆どない私たちの中にも「占領されたくない」という気持ちが多くあるのは事実なのだ。

私も、ケルンでの大事件を考えると、よく分らない。もちろん、難民すべてが危険なわけではないだろう。しかし「抑圧されてきた人々」というのは何かしら大きなストレスを抱えているわけで。それは生まれも育ちも日本である人でも同じだろう。

そういうストレスを抱えている人たちを「少しでもストレスを減らせるように受け入れよう」と考えるか、「ストレスを抱えている人はリスクになるから、別の形で援助をするべきだ」と考えるか。
私はまだまだ後者なのである。

前者になって、自分や自分の友達、その娘などが性的暴力を受けてもそれを許容できるほど寛容でも強くもないのだ。

これが「某隣国を無条件に批判する」ということと、あまり大差ないのだろうということも分っている。

解決するのが難しい。ホームレスに同情を寄せても、その人を家に連れてきて介抱しないのと同じだ。
もちろん、自分が無理ない範囲で手助けするのが一番いいのもわかっている。しかし…

ドライになれたら、冷徹になれたら悩まなくて済む問題かもしれない…

どうしたらいいのかと途方に暮れたところに 1 人のカリスマが現れる。自分で考えるより、考えてくれる人についていく方がラクなのだ。みんなに支持されているのだから、この人についていけば間違いないのだ。

そしていつの間にか巻き込まれて、ミルグラム実験でおこなわれたような悪夢の実現に、知らない間に加担することになってしまうのであろう。

考えないでいたら、自分で自分の行動を決めないでいたら、人は人すら殺すのである。

また、大勢で加担すればするほどそれによって感じる個々の責任感は軽くなるのである。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない (物理的にこれだけ塊になれば当然車避けるであろう、という意味もあるのかもしれないが)」という言い回しは日本にもある。

「カリスマ」。

これも、「ヒトラーはまるでカリスマだった」ということで、「本来、人が正常ならあんなのについていくわけがない! ついていったのはどうしようもないあのカリスマ性に逆らえなかったのだ」「ヒトラーだけが特別だったのだ」と、自分の判断力の欠如を正当化するためだけの理由としてこの言葉を扱い、自分を省みることができないのなら、なるほどヒトラーが死んでも私たちの中に彼は生き続ける。

いや、ヒトラーという 1 人の人物など、最初から大した問題ではなかったのかもしれない。

種が土に落ちて、雨が降り日が照らせば勝手に育ってしまうのと同様に。
「その最初の 1 歩」を踏み出させただけだ、と、ヒトラーは言うだろうか。

映画のヒトラーは本当に本心から「国民 (純粋なアーリア人?) の幸せ」を願っているように見えたのである。行動は責められてもその想いは責められない。
間違っているんだろうか?

そうは思えないのだ。自分のことを純粋に第一に考えてくれている人を誰が責められるだろうか。

だから、あの悪夢が現実になったのだ。

この映画のメッセージの解読はかなり難しく、10% も理解できている自信がない… なので感想を書くのに多少時間を要した。

個人的にファビアン? が、ドイツのマーティン・フリーマンという感じですごく良かった。