1977年、ロンドン郊外。
音楽に夢中の内気な少年エン(アレックス・シャープ)は、偶然潜り込んだパーティで不思議な魅力を持つ美少女ザン(エル・ファニング)と出会う。
大好きな音楽やパンクファッションの話に共感してくれるザンと一瞬で恋に落ちるエン。
だが2人に許された時間は48時間だけだった。
何故なら彼女は宇宙人であり、遠い惑星へと帰らねばならないからだ。
やがて2人は大人たちが決めたルールに反発し、大胆な逃避行に出るのだが...。
“Do more punk to me”-ザン
個人的に大好きな監督ジョン・キャメロン・ミッチェル。
彼の作品たちは皆、一貫性があり、毎回心の奥底を良い意味でザワつかされる。
【ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ】や【ショートバス】、勿論本作も然り。
芯がブレない人はなんて素敵なのだろうか。
本当に心から音楽を愛しているのが分かるし、愛という不確かで確かなモノに真正面から対話しているのが痛いほど伝わってくる。
凄まじい程の熱量、一歩間違えば「なんだこれ」とも成りかねないギリギリのラインに挑戦する姿勢、圧倒的ヴィジュアル面の面白さ。
しかしその唯一無二の世界観の中で描くのは親しみやすい極めて普遍的なモノなのだ。
彼の作品はいつだって愛を求め、自由を求め、自分というかけがえのない存在の居場所を求めている。
それらは僕らにも覚えのある感覚。
誰もが求めてきた身近で必要不可欠な存在。
そのはずなのに、あまりにもその存在が大きすぎて、あまりにも見えなくて、触れなくて、何処かに必ずあるはずなのに、いつの間にか求めていたことすら忘れてしまった。
思いを燻らせたきり、自らの手で蓋をしてしまった。
抑圧された世界に身を置くにつれ、いつしか異常を異常と思わなくなり、その世界が自分の居場所だと錯覚してしまった。
若しくはそう思い込むことで己を無理矢理正当化させてしまった。
そんな僕らの胸の中で今も尚燻る感情を、温かく解放してくれるのが彼の作品なのである。
例えそれが一時的なものとして終わることになったとしても。
本作もまた、僕にそのような機会を与えてくれたことは言うまでもない。
本作はボーイミーツガールであり、成長物語であり、音楽映画であり、ファーストコンタクトもののSFでもある。
そしてそれら全てを上手くひっくるめた、最高にパンクで最高に甘酸っぱい青春映画、それが【パーティで女の子に話しかけるには】である。
愛は何かに制御されるものではないし、されてはならないものだ。
理由なんていらない。
ただ愛に素直になるだけでいい。
愛は頭の中で生まれるものではない。
性によって生まれるものではない。
体で感じるものではない。
愛は胸の奥、心の中で生まれるのだ。
性別、人種、宗教、生い立ち
幾つもの垣根を越えて確かなモノ。
それが愛。
また、監督からすると“音楽”も“愛”と同じ類のモノなのだろう。
そして本作から感じ取れる“パンク”の在り方。
今までの慣習や儀礼に倣って生きていく。
この“慣習”や“儀礼”などは人間の歴史の中で作り上げてきた尊いものでもある。
実際、僕も現在に至るまでこれらのもとに生きてきた。
それが普通だと無意識的に信じ込み、疑うことはなかった。
だがもし「それは間違いだ」と思った時、自分の気持ちを無視してまで慣習やそららのものに従って生きるのはどうなのだろう。
そう、その時こそ“パンク”になる時。
頭の中で思っているだけでは駄目だ。
叫ばなくちゃ伝わらないこともある。
逆に叫んでも伝わらないこともある。
だが、“自分の意思を言葉にして体から出す”ことに意味があるのではないだろうか。
僕にその時がきた時、誰の耳に聴こえるか分からない。誰の心に届くか分からない。
ビビりでどうしようもない野郎だから叫べるかも分からない。
でももし、自分の意思を声にして叫べたのなら、たとえ聴いてくれる人がいなかったとしても、叫べた自分を愛してやりたい。
この作品がそう思わせてくれた。
この作品の存在自体が、まさに〝パンク〟そのものだった。
是非多くの人に観ていただきたい傑作青春映画です。