こーた

ノー・エスケープ 自由への国境のこーたのレビュー・感想・評価

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ささやかなリーダーシップ、ということを考える。
それは先頭にたって、みなを引っ張っていくような、わかりやすいリーダーシップではない。
むしろ最後尾を進み、遅れそうなものがいれば自分もペースを落とし、へたりこんでしまうものがいれば、鼓舞してやさしく助け起こす。ひとりも落伍者が出ないように、いつもうしろに気を配る。
そんなささやかな導きかたにこそ、わたしは惹かれる。
この映画の主人公モイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、そんなやさしさと謙虚さをもった男だ。

さきを急いだものたちは、不運にも斃されてしまう。
モイセスたちはその状況を、映画の観客さながら、丘のうえから観ている。
次に狙われるのは、われわれだ。
かれらの恐怖が、わたしたちにものしかかる。

ハンターのサム(ジェフリー・ディーン・モーガン)は、なぜ執拗に追ってくるのか。
そこには理由などない。
ひとはかならずしも、明確な信条や論理にしたがって行動しているわけではない。
むしろ逆で、その言動にこそ、人物の個性が表れる。
追う、というシンプルな行為そのものが、サムというキャラクターの輪郭を浮き彫りにする。

これは国境をめぐる寓話だ。
境界を越えて、内側の自由を脅かす侵入者の存在。サムはそれを排除しようとする。
かれはアメリカという国そのものの象徴でもある(象徴であるからこそ、かれのパーソナルな部分は描かれない、ととらえることもできる)。
排斥のはてに待っているのは、いま持っているものをすべて使い果たし、空っぽになった自由だ。
広い砂漠の真ん中で、どこへでも行くことができるのに、どこへも行くことができない自由。そんな自由ならわたしはいらない。それは自由ではない。

サムがアメリカなら、飼い犬のトラッカーは、日本だ。
犬の論理はシンプルだ。飼い主の命令に従う。ただそれだけである。
人間が、自分でもわからない理由で行動する複雑な存在であるのとは対照的に、犬はそのシンプルな論理に従って、ひたすら獲物を追うのみである。
そこに思考は存在しない。そのことに疑問を持たれることさえない。
従順のさきに待っている犬の末路は、悲惨だ。
さきに斃れた飼い犬を、あるじはサムのように哀しんでくれるだろうか。
哀しんでくれれば、それで満足なのか。
われわれは従順な犬のままでいいのか。
日本人のわたしは、犬のトラッカーに自分を見て、慄然となる。
ハンターに追われる恐ろしさよりも、ずっと大きな恐怖が、わたしにのしかかってくる。

あの犬のように、前のみを見て突き進んでいくリーダーを、わたしは望まない。
それよりもつねにうしろに目を向け、遅れそうなものがいないか気にかける、モイセスのようなリーダーを、わたしは望んでいる。
足手まといでも肩をかし、重みに耐えてでも、ともに歩んでいくほうが、ずっと遠くまでいける。広い砂漠も渡っていくことができる。
その歩む背中を見て、わたしもああなれたら、という憧れを抱く。
先頭に立つことはできなくても、ささやかな何かなら、わたしにもできるかもしれない。
そんなささやかなリーダーシップに、わたしは勇気づけられる。