140字プロレス鶴見辰吾ジラ

アントマン&ワスプの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

アントマン&ワスプ(2018年製作の映画)
4.2
”優しい世界”
※一部を除く

前作に引き続き「アントマン」の1作目で描いた、楽しいアクションと愉快な仲間、そして見え隠れする量子の世界に堕ちるという恐怖感のスパイスが効いた娯楽ヒーローアクションとして申し分ない出来。前作はアントマンの始まりだったところから、「シビル・ウォー」のドイツでの一件を経て、和スプという新たなる戦力と、前作で映し出された量子世界のミクロ的なスペクタクル性から可能となった、ピム博士とホープの母親を探すという家族愛としての視点を加えて、アクションあり、スペクタクルあり、コメディあり、そして前作で提示された「アベンジャーズに任せておけ」というローカライズされたヒーローのミクロ的な”じゃない方”の魅力を詰め込んだびっくり箱のような映画だった。

その中で示される”家族”というキーワードに対して、スコットの娘との愛情の育みと、ピム博士とホープの量子世界の母親の生存を信じてすべてを捧げている様の対比で示している。序盤のスコットが娘のために作った段ボールの迷路とそのアクションの顛末は涙が出るほど素晴らしいし、逆にピム組の量子世界というミクロすぎて途方もない探究作業の死別に対しての抗いと恐怖を孕んだ世界への挑戦が、非アベンジャーズ組としての配置であるが作品としての熱量を高い位置に押し上げていた。

しかしながら話がシリアスだったり恐ろしさのゲージを上げていくと、マイケル・ペーニャ演じる陽気な元泥棒稼業組のボケの連打と割とシリアスな出で立ちの悪役チームの掛け合いが煙に巻くようにコメディ世界を放り込んでくるところも良いスパイス。特に自白剤を巡るくだりのしょうもないやり取りやシリアスな会話を切り裂く間の抜けた着信は最高だった。

ただ、ここからは私の妄言になってしまうと思うが、そんな楽しく笑えるヒーローモノの皮を被りながら、人類の科学技術的な進化として、ないし精神的な欲望である「死への抗い」や「死に対する克服」を仕込んでいるのだと思った。前作で突入した量子世界のシーンは、クリストファー・ノーランの「インターステラー」のブラックホールの内側の壮大性に酷似していたと書いた。「インターステラー」は宇宙の壮大さであったが、「アントマン」は真逆の量子世界というあまりにミクロなスペクタクルである。しかしその中で”ゴースト(幽霊)”という存在については共通していて、かつノーランの作品内で描く「失った人への追憶や妄念」は、本質的に本作でも同じであった。あの出来事を再構築して修復したいという欲望、愛する人を探し彷徨えう妄念が、”ゴースト”という価値基準によって露呈する。つまりは幽霊という存在を未来人と設定するか、本作で提示した量子のもつれの存在と仮定するかで言いたいことは同じであると思う。本作では、失ってしまった人は量子の世界で幽霊のような存在として人知を凌駕する存在になっていて、壁のすり抜けや時空・時間の中に含まれているとし、さらには量子の世界の独特のオカルティズムを使って相手の脳内に入り込む(憑依)という性質も付与できるとゲーム要素のように加えている。あくまで娯楽作である本作であるが、人類が死によって失った存在を逆探知システムのように現世に引きずり戻すことが可能ではないかと死別への抗いを見せ、さらに人類が量子世界の時空ルールにのっとり進化することで死を超越した次の段階に進化することをテーマとして添えていたのではないかと思った。(「2001年宇宙の旅」のモノリスのくだりの派生版のように)そして、MCU映画をプロデュースするウォルト・ディズニー・スタジオが絡んでいるとあらば、過剰に都市伝説よりな妄言になってしまうが、コールドスリープやクローン技術のような使い古されたSF用語を飛び越え、人類が量子エネルギーを利用して思念体のように進化する未来を作り出すための資金源をディズニー帝国は生みだそうと…そんなわけはないだろうが、死という別離の恐怖への抗いや、死別という拭い去れない過去に対しての今はまだマッドサイエンティズムな要素を中に入れ込んだのではとワクワクしながら思ってしまった。

エンディングシーンの本作のハイライトを作りこまれたジオラマや粘土フィギュアで再現したキチ○イレベルの演出に度胆を抜かれ、本作一番の恐怖シーンに彼らの闘いから目をそらしてはいけないと強く心に刻み、最終決戦を待つ。