晴れない空の降らない雨

リメンバー・ミーの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

リメンバー・ミー(2017年製作の映画)
4.0
 極彩色の洪水に溺れながら、常時笑いとスペクタクルを忘れないピクサーのサービス精神に安心して物語を追っていると、いつの間にか今日的で重要なテーマに真摯に向き合っている。ピクサーは本作で、「家族」の称揚という米国アニメーション映画のド王道をまっすぐ進みながら、そこに「死の肯定」というメッセージを自然なかたちで織り込んでみせた。このメッセージのためでもあろうが、群集でごった返すSF的未来都市感すらある死者の国の祝祭感(事実祝祭なのだが)は終始維持されている。いつものことだが、モブですら一人ひとりすぐ見分けられるようにデザインされ、細部に手を抜かないピクサーの完璧主義に感嘆した。
 そして何より、ココおばあちゃんのあの顔! あの “容赦なく” 完璧に造形されたしわくちゃ顔の堂々たるクロースアップに、「人が老いて死ぬことを(条件つきだが)肯定する」という本作の姿勢が集約されている。
 
 ピクサーとして音楽をフィーチャーした最初の作品でもある。劇伴のマイケル・ジアッチーモはピクサー作品によく参加しており、『カールじいさん』でのアカデミー作曲賞をはじめ多くの受賞歴をもつ。本作ではフラメンコギターをはじめラテン系音楽を取り入れることで、南米感を演出している。
 劇中歌は自然ななりゆきで歌われ、ミュージカル映画の唐突な入り方ではない。なかでも『アナ雪』のロペス夫妻による《Remember Me》はストーリー上も重要な役割を担っており、さらに最初と最後でその意味が著しく変わるという実にピクサーらしい捻りが加えられて話に組み込まれている。ミュージカルを用いてもあくまでストーリーありき、というピクサーの意思表示を感じさせる。
 映像作品において音楽がナラティブを助ける、時に「乗っ取る」ことは多々あれども、優れた物語は逆に音楽を魅力的にする。ラテン系の伝統音楽や、挿入歌のフラメンコギター弾き語りといった、現代的とはいえない音楽がこれほど魅力的・感動的に聞こえるのは、本作の物語自身の力によるものである(むしろ現代的なダンスミュージックはさりげない伏線として、観客に若干の違和感を抱かせるような形で使われている)。
 
 そこかしこで光る技巧も好感度高い。死者は、生者から完全に忘れられると、死者の国からも消滅してしまう(「最後の死」)。それを説明するシーンで、ハンモックで寝ている死者が消滅する。そのとき、その「完全にいなくなる」とはどういうことかを、彼の体重がかからなくなったことによるハンモックの傾きの変化で示してみせるあたりは「一本!」と思った。ほかにも、モニターに近づいてドアップになるのとすぐ後ろの幕から現れるのをシームレスに繋いで見せるなど。また観ればもっと見つかるだろうと思われる。
 
 そういうわけでピクサーの実力を何度目かの再認識。
 しかし、白状すると、「めちゃくちゃ盛ってあるけど、逆になにかが足りない」感じも拭えなかった。監督のリー・アンクリッチの初監督作品『トイ・ストーリー3』観たときも、そんな印象をもったことを思い出した。そこで自分のレビューを見返したら、「『ピクサー社内資料 シナリオ作成マニュアル』感がところどころに漂っているのは否めない」と書いてある。本作はその印象がより強く、また後半は「家族か音楽か」という問いの解決をまとめきれていない。
 そして、最も優れたピクサー作品たちに比べると「よくこんなの考えて実現させたな」という「驚き」が弱かった(「またそれか」な箇所もあり)。死者の国も、空港のチェックアウトをパロディにしたところは面白かったけど、あとは視覚的な派手さで押しきられた気持ちである。「死者たちが実際に住まう世界」としてどういう場所かの描写は不足していたように感じる。
 とはいえ今日、新しいものに出会えたときの驚きがいかに稀少になっているかを思えば、さすがにその要求は高すぎるのかもしれないが。
 
 黒と原色を組み合わせたエンドロールからはメアリー・ブレアを想起。1940〜50年代にディズニーで仕事をしたコンセプトアーティストだ。直接参照したというよりも、南米アートつながりで自然と似通ったのだろう。