垂直落下式サミング

灼熱/灼熱の太陽の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

灼熱/灼熱の太陽(2015年製作の映画)
5.0
クロアチア映画。国旗がくそカッコいい国だ。ミルコ・クロコップの出身国でもある。本作が描くのは、ミルコが少年~青年時代を過ごした民族紛争の時代。暮らしていた町が紛争に巻き込まれ、周囲の友人が幾人も死んでいくなかで、彼は身を守るために格闘技を身に付けたという。本作は、そのような過酷な時代背景の描写を大幅に省略しているが、このメロドラマの背後には、そのような血生臭いリアルがあることは覚えておきたい。
まさに、ハイキックが脳天に直撃し、脳髄がリフトオフするかのような骨太な作品であった。戦後日本がそうであったように、巨大な傷を負った場所には、力強いコンテンツが芽吹くのだろう。
クロアチア紛争の勃発から10年ごとに3つの時代、紛争がはじまる1991年、紛争終結間もない2001年、和解し平和を取り戻す2011年の異なる時代に生きた三組のカップルを同一キャストが演じ、それぞれの愛のあり方をオムニバスで紡ぐ。
描かれているのは上質のメロドラマだが、隣り合った国同士が仲好しなわけはなく、そこにクロアチアの男とセルビアの女という民族感情がからむことでドラマを盛り上げる。
三話ともに、水面に顔だけだして仰向けに漂う同じ構図の海中シーンを入れ込んで、物語の連続性を意識している。
興味深いのは、見せ場の多くは俳優の演技に頼っているのに、役者をひとりの人格ではなく、単に画面を構成する小道具や風景と同等の物体として撮影していること。絵作りに入れ込んでいる映画は、たとえ役者が発する台詞が耳慣れない言葉であっても画面に粘りがある。人物に血を通わせようとしない姿勢それ事態が、物語の傍観者となる観客の視点と肉薄してゆき、映画という客観の文学であるが故の無慈悲さが強調されていた。
見せ場となる場面は、遠巻きのショットだったり、一瞬見切れるだけだったり、半分なにかに隠れていたり、鏡の反射に映り込むのみだったりと、どれも全容をハッキリとは見せず、観客にこれはなんだろうと思わせ画面に惹き付け続けるテクニックが張り巡らされていて、それがまたいやらしいくらい上手い。
特に好きなのは二話目、敵に肉親を殺されたもの同士、互いに好くはずのない二人の関係だ。母と二人で暮らすセルビアの女が、大工として家を修理しに来たクロアチアの男に対して好意を抱いていく描写が実に映画的で、鉋で木材を削る動作に合わせて音をたてセッションして、この非言語の語らいが後の情愛を予感させる。
男のほうはその気などないどころかセルビアを嫌っているのだが、気持ちが高ぶった女が、その感情を性欲として相手にぶつけると、衝動的で荒々しい性交がはじまる。ことが終われば自分から口づけをせまる男、しかし、女はそれを拒否し、「これが最後」と告げる。拒絶された男は、この出来事を断ち切るために金をおいて去る。しかし、その行為が割りきった関係を誓っていた女の覚悟を揺るがしてしまう。
ここにあるのは、打算や金銭、独占欲、既成事実のなかにこそ、手放し難い愛は芽生えるという身も蓋もないこと。これをやられたらどうしようもない。