小一郎

広河隆一 人間の戦場の小一郎のレビュー・感想・評価

広河隆一 人間の戦場(2015年製作の映画)
4.5
偉人に会ってしまった。偉人の名前はフォトジャーナリスト広河隆一。トークショー付きの映画鑑賞後、パンフレットを買い、サインをもらってしまった。

(以下の感想はほとんどが、パンフレットからの引用なので、素の状態で鑑賞したい方はスルーしてください)。

広河は、パレスチナ難民問題やチェルノブイリ原発の取材で実績をあげただけでなく、被害を受けた子供たちの救援活動にも奔走する。

作品の終盤、監督は問う。広河の活動はいわゆるジャーナリストの役割を超えているのではないか、と。それに対して、広河の答えが凄い。

「たしかに超えているとは思う。でも超えなきゃいけないと僕は思うんです。ジャーナリストは見たものを伝えるのが仕事で、それ以上介入すべきでないという人がいるけれど、それは間違いだと思う」。

「ジャーナリストである前に自分が何かと言ったら人間です。人間という大きなアイデンティティのなかに、ジャーナリストというアイデンティティが包まれているんです。だから目の前で溺れている人がいればカメラを置いて助けなくちゃいけない」。

「世界中の人間が共通に持っている権利は生きる権利、しかも幸せに健康に生きる権利です。そうした人々の権利がジャーナリストの背中を押すのだから、それが目の前で踏みにじられているときに、自分は写真を撮るだけなんて言えるわけがない。ジャーナリズムと救援運動は、同じ目的のためにはたらいている二つの方法だと思う」。

人間としての芯の強さ、考えの大きさに脱帽するしかない。ジャーナリストの活動を支える人間を助けずして、何がジャーナリストだと。もの凄く大きなこの世界観の背景には、次のような体験がある。

1976年パレスチナの村に取材で訪れた広河に対し、息子をイスラエル軍に銃殺された男性が「何で今ごろ来たんだ!」と叫ぶ。「1カ月前に来ていれば、俺の息子は殺されずに済んだのだ」と。訳を聞くと、「外国人ジャーナリストという証言者のいるところでは、権力側は銃での殺害などといった暴動ができない。だからお前がいてくれたら息子は死なずに済んだかもしれない」。ジャーナリストの役割とは権力の暴走に対する抑止力なのだ。

この言葉がことあるごとに広河の脳裏に浮かぶ。1982年レバノンベイルートでパレスチナ難民キャンプをイスラエル軍が封鎖し、ジャーナリストの立ち入りが禁止された。取材したくても命を落とす可能性が大きい状況にあって、この言葉を思い出す。

行きたくない身体とジャーナリストの使命として行くことを命じる観念の葛藤。体調に異常をきたすほど悩んだ末、「行かない理由はない」と単身難民キャンプへ向かう。そこで撮影した映像は、パレスチナ人虐殺の証拠として、国際公聴会に提出され、その後世界に配信された。

この覚悟にシビレまくったけど、広河は「死体にしかシャッターを切れないことほどジャーナリストにとって悔しいことはない」と、やはり間に合わなかったことを後悔するのだ。

広河が何故、救援活動に注力するのか、とても腑に落ちる。救援活動の映像の彼は、呼吸でもするかのように自然だ。「写真とってください」とお願いされる普通のおじさんなのだ。本当の偉人は偉人であることが、見ただけではわからないのかもしれない。他人にとっては非常なことでも、偉人には当たり前のことなのかもしれない。