劈頭の、自転車を漕ぎながら手を離し、目を閉じる瀬戸康史の正面ショットと、その直後の斜め後ろからとらえたややローポジションの一連の的確な移動ショット、およびそれが作り出すシーンを観ただけで、この映画を理解することができる。
それは無論、日常を恣意的にかき乱す、地震のような女の登場を予期している。
そして、この映画はしかるべき持続を孕んだショットが断続的に姿を現す。
店内に闖入してくる女とそれを拒否、あるいは否応なしに容認せざるをえない瀬戸康史との溝口的な動線が、カメラから逃げ回る俳優たちがその持続に貢献していることは特筆すべきだろう。