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アノマリサのdojiのネタバレレビュー・内容・結末

アノマリサ(2015年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

チャーリー・カウフマンの前作『脳内ニューヨーク』のエンディング曲である“Little Person”は、「わたしはただのリトルパーソン(なんてことない存在、と意訳できるかもしれない)」という歌い出しではじまり、印象的なコーラスではこのように歌われる。

「そしてどこか たぶんいつか

たぶんどこか遠いところで

わたしはきっともうひとりのリトルパーソンをみつけるはず

そしてそのひとはわたしを見てこう言うのです

あなたはわたしがずっと待ち望んでいたひとだと」

カウフマンによって書かれたこの曲(クレジットでは作曲者であるジョン・ブライオンの共同名義になっている)こそ、まさしくこの『アノマリサ』の主題歌にふさわしいのではないかと思うほど、本作のテーマと通じるものがある。言ってしまえば、いかにもカウフマン的なテーマだと思う。

この映画では、主人公と彼が巡り会うリサ、そしてその他すべてのひとびと(クレジットではEveryone Elseとされている)の、3人の声の演者しか登場しない。女性を含むすべてのその他のひとびとが男性の声によって演じられる違和感、それを観るものに強烈に感じさせながら、やがて主人公はたったひとつ異なる声をみつける。リサの声を。

アノマリー、変則、ふつうではないこと、それはまさしく主人公にとっての“the one”であり、“アノマリサ”こそがずっと待ち望んでいたただひとりの存在だと主人公は確信したはずだった。けれども朝を迎えたときに、リサの声は次第に他のひとびとと同じように聴こえてしまう。

なぜリサの声はアノマリーであることをやめてしまったのだろう、もしくは、なぜアノマリーとして聴こえなくなってしまったのだろうと、ついその理由を考えてしまう。もしぼくだったら、たぶんじぶんを責めてしまうと思う。そう聴こえなくなってしまったじぶんが悪いのだと。または、突き放して考えてしまえば、結局のところリサの存在も主人公にとってアノマリーじゃなかったのだろう、と結論づけてしまうかもしれない。

それでも、この映画のおそろしいところは、それはそういうものだ、という身も蓋もない結論も、だれかにとってのアノマリーというのは必ずどこかにいるはずなのだ、という希望も、そのどちらも観るもののこころにちらつかせてしまうことにある。そしてあざ笑うかのように、この映画は人形劇ですよと注釈をいれることを忘れない。かつての、もしくはいつか出会うかもしれないその声の存在を、多かれ少なかれ待ってしまうこと。そんなロマンチックな思いに、カウフマンはまったく容赦してくれなかった。
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