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KUBO/クボ 二本の弦の秘密のbluetokyoのレビュー・感想・評価

KUBO/クボ 二本の弦の秘密(2016年製作の映画)
2.9
2024年5月6日 8:45~ Eテレ 吹替え
正直に言って、テーマがわからない。なんとなく、面白いんだけど、結局、なにを言いたいんだかわからないんだよな。だから、日本を舞台にしていながら、なんか、日本的ではない。意味がわからないのは、日本語訳がこなれていないからなんだろうか。テーマは、後半、というか、全編に出てくる「物語」なのだが、これはもう、普通の意味での物語ではないだろう。亡き人への思い出、というのに近いが違う。「千の風になって」という歌が近いだろうか。

主人公のクボ少年は、病身の母親と二人暮らし。だが、病身の母親も亡くなってしまう。
ここで、タイトルの二本の弦が出てくる、と思える。一本は、母親の髪の毛、もう一本は、父親の持つ弓矢の弦、なのだろう。

一人になったクボ少年は、サル、クワガタムシみたいな武者と三人で、刀、鎧、兜を探す旅に出る。途中で、闇の姉妹の攻撃を受ける。
で、サルとクワガタムシみたいな武者は、母親と父親だったりする。

激闘のすえ、またしても一人になったクボ少年は、最後のラスボス的モンスター、天帝と対決。
なんでまた、この天帝というのが高圧的で襲いかかってくるのかというと、「物語」いらない派だかららしいのだが。

で、もっと複雑なのは、母親というのは、天帝の娘で、父親である武者を倒しに行ったのだが、父親に惹かれてしまい天帝を裏切ることになった、ということなのだ。

そして、最後は、母親の弦、父親の弦、自分の弦、三本の弦がそろった三味線をジャーンと鳴らして、ラスボス天帝を倒すことになる。

でも、じゃあ、天帝って、なんだ、という話しである。永遠がどうのこうのとか言っているけど、ようは、「物語」いらない派だから死んだら、「無」ということだ。つまり、現実がすべてなのである。空想はいらないのである。

どういうことかというと、たとえば、映画製作である。空想し世界を作るのが映画であるとする。それに対し、一方では、採算にあうかどうかという、カネの問題、つまり、現実的な問題がある。
とすると、天帝の「物語」いらない派というのは、現実的問題、ということになる。

この映画は、現実的な問題、たとえばカネの問題、との戦いを描いたわけである。童話、寓話としてみるとピンとこないわけなのだ。
そういう、それこそ現実的なことではなく、本質的なテーマにして欲しかった。
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