惡

劇場版 501の惡のネタバレレビュー・内容・結末

劇場版 501(2016年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

果たしてこれを正当に評価していいのか。ここまで評価に困る作品はないだろう。

本気になろうとするものの、本気になってくれず、ロッキーもマトモに見てくれない逃げてばかりの彼女と正面からぶつかろうとする姿勢は胸が熱くなった。
「何か最後まで読みきった本はある?」
まさかこの映画でここまでえぐられるとは。

ある意味個人攻撃とも等しい表現もときには用いながらこの作品は進んでいく。
だがその思いは対象となった彼女には届かない。EXILEの自伝を読みきれない彼女にとってこの映画は有名になるための"ツール"ではあったがTwitterにアップできない側面は彼女には理解不能な行為でしかない。

しかし中盤、明らかに膨大すぎる素材のせいなのか編集はどんどんカオスな方向へ。歴史に残ることを〜という目的が個人の脳内の中に回帰していく。のだが、結局出来上がった映像がゲテモノ映像博覧会になっているのは残念だった。そうならないようにという作り手の膨大な努力が見えるだけに。ビーバップみのるの苦悩や努力が濃厚な精液のようにスクリーンから滲み出る作品になっている。

果たしてこれでいいのか?
おそらく彼はまだ答えを見つけていないはず。そしてそれは120分(予定)を経た我々もそうである。

テレクラキャノンボールのエンターテイメント作品としての完成度を引き上げていたのが、男たちのゲームを記録するドキュメントという構造を維持しながらも数多のテレビでは映らない人々の人生や日常的に暮らしていて意識しない生活圏外の社会構造をペシミズムに陥ることなく描写して"しまった"ことにある。(もちろんカンパニー松尾の計算の上であろう)
それを踏まえた上で今作を思い返すと、意図的に"何もなかった"けれど、"何かは映っていたよ"ということを言いたい映画だという意思は明確に伝わる。どこまでもドラマチックなフィクション、ドキュメンタリーの体裁も超えた"何か"であり、ビーバップみのるにとって完成することのないホドロフスキーのDUNEのような作品なのだろう。
けれど、おそらくカンパニー松尾が撮影したであろう取って付けたようなあのEDをどうにかして変えてもう一度再編集版を観たいものである。(EDテーマは素晴らしかった)
しかしこれほどの苦悩と精液がカオスに入り混じった映像がスクリーンで観られる機会はない。
この体験はロッキーのよくわからない続編をシネコンで観るよりは何倍も脳内を揺さぶる体験であった。