新たな映画文法の創出を目指した実験作である。
回想__それは、創作する者にとっては便利なもの。回想を使えば、いくらでも後出し説明ができる。
しかし、回想には本筋のドラマを停滞させる副作用があり、あまり安易に用いるべきではない手法とされている。
そこで、回想によって本筋のドラマも押し進める手段はないかと、先人たちは格闘してきた。
その代表格は、黒澤明の『羅生門』。視点を変えることで、新たなドラマ性を生み出した。しかし、本筋が止まっていることには変わりない。
細野辰興は『私の叔父さん』において、回想を観客にも疑似体験させようと試みた。
タランティーノは、『パルプフィクション』において、時制をバラバラにして、回想を単なる説明とならないよう試みた。
そして、一定の成功を収めた。しかし、まだ難があった。作り手によって、作為的に時間が整理されていることから生まれる違和感である。これによって、疑似体験性は大幅に薄れていた。
ノーランは、時制をずらした作為すら、観客に感じさせない方法を模索し、試した。それが本作である。
1週間・1日・1時間と幅の違う物語を混ぜることで、回想と感じさせずに物語を紡ごうとした。
また、途切れなく続く劇伴と時計の秒針音によって、時間幅の違いをいつしか忘れさせ、『パルプフィクション』の問題点を解決しようとした。
そして、最大のチャレンジが、脳をフル回転させながらの疑似体験性の強化である。さも戦場にいるかのように感じさせながら、作為的な物語を無意識に脳で処理させる。
つまり、心が揺れ動いている中で、同時に俯瞰的に物語を再構築する作業を強いているのである。それも無意識に行うように。
VRが感覚の疑似体験ならば、本作は心と脳を結びつけた疑似体験。
もはや、映画というジャンルを超越してしまっているのだ。
とはいえ、この試みが100%成功したわけではなく、乗り切れなかった観客も多数存在する。
しかし、この1歩は、映画史にとってとても大きな1歩である。
先人たちのチャレンジ同様、このノーランのチャレンジが、新たな映画文法を築く礎となるだろう。
私がアカデミー会員ならば、脚本賞は『ダンケルク』以外には考えられない。