YasujiOshiba

ダンケルクのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ダンケルク(2017年製作の映画)
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それは静かに始まる。空から降ってくるチラシはドイツ軍ものなのだろう。お前たちは包囲されているぞという毒々しい赤のチラシが、まるで散ってゆく花のように舞い降りる。まだ静かな街を進む6人の小隊に、突然、銃声が襲いかかる。空気が切り裂さかれ、壁や塀が炸裂し、跳弾が巡り、制服やヘルメットを貫通する。走り出す肉体は次々と倒れ、倒れてくれた誰かのおかげで、たったひとりが、友軍のバリケードの向こう側に駆け込むことができた。このフランス人の兵士から、ボンヴォワージュ(bon voyage)という言葉がかけられるとき、ぼくらはこの生き残るべく定められた青年トミー( フィン・ホワイトヘッド)とともに、その意味を思い出すのに、すこしばかり戸惑わなければならない。

ボンボワージュ、それが「良い旅を」という皮肉であることは、トミーを捉えるカメラが教えてくれる。背後での銃声から逃げるように走り出したこの青年を、怖いまでに震えないフレームがつかまえてはなさない。それはまるで、背中を未来に向けて飛ぶように後退してゆく「歴史の天使」の視線のようではないか。とらえられるのは、恐怖とかすかな希望の入り混じったトミーの瞳。街の通りを走り過ぎ、海岸線への通路を抜けるところで、青年の足が緩む。カメラは、一瞬その背中に回るものの、また正面に戻ると、立ち止まる青年を残して、後方へと飛び続ける。まるで、その絶望を俯瞰しようとするかのようではないか。

それは、1940年5月の終わりのダンケルクの海岸線。C.ノーラン/ホイテ・ヴァン・ホイテマのカメラは、まるでそんな「歴史の天使」のような視点から、その場所で繰り広げられる歴史的な大撤退作戦(ダイナモ作戦とも呼ばれたらしい)を見つめようとする。それは「ダンケルク・スピリット」という表現として残る作戦のこと。

しかし、である。勝利のために力を合わせて戦う精神であることを誤解してはならないと思う。たしかにイギリス人の父を持つノーランは、もしかすると「ダンケルク・スピリット」を称揚しようとしているのかもしれない。それはたしかに敗北のなかの勝利なのだけれど、歴史上、敗北というやつは、いつだって美化されてきた。

実際、最後のところでトミーが読み上げる新聞の言葉は、チャーチルの有名な演説"We shall fight on the beaches" (1940/6/4) 。ダンケルクの撤退によって、ナチスドイツのイギリス上陸の可能性が高まったなかでの演説として有名なものであり、もちろん、ぼくだって不覚にも感動させられそうになったのだけど、それでは何も見ていないのと同じなのだ。

そうではなくて、ぼくらが見るべきは、この言葉を読み上げたトニーの表情なのだ。少なくともぼくにとって、その顔は、あの「歴史の天使」の表情へと近づくもの。それは未来に背を向けて、人間が歴史に刻み込んできた悲劇の数々を、これまでもこれからも、ずっとその大きく見開かれた瞳に焼き付けてゆくことになる。

死んで英雄になる少年や、英雄的な空中戦の末に不時着して捕虜になるパイロットよりも、ただ呆然と、その大きく見開いた瞳に刻みつけてきたトニーの闇に消えてゆく表情にこそ、ぼくらは歴史と出会う場所を求めなければならないのだと思う。
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