YasujiOshiba

映画 聲の形のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

映画 聲の形(2016年製作の映画)
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生き延びることが大切なのはわかっている。けれど、そのためにも大切なのは事故を起こさないこと。

冒頭、橋の欄干に立つ少年は、それなりの故あって事故を起こそうとしている。けれど、どんな故があろうと、事故は事故。そんなものは、河原で家族が遊ぶ花火の音が、パンとその耳に届くだけで回避できる事。事故は必然ではない。

それでも事故は起きる。なんらかの事(こと)の故(ゆえ)に。だから、事故を呼び込むモノには注意しなければならない。モノとは、コトとコトがどうしようもなく絡まってしまったモノなのだろう。それはモノモノしいモノとなってヒトにとりつく。

コトがモノになってヒトにとりつくとコトだ。解きほぐすのに時間がかかる。それでも時間さえかければ、モノはコトへとほぐされる。コトにまでほぐしてしまえば、うまくパンと響かせるだけで、コトほぎの笑いがひびく。

しかし、パンという響きが、ときに、モノモノしいものを目覚めさせてしまうこともある。あの河原の花火が、花火師の花火となって打ち上げられるとき、それは待ちに待った祭りの喜びのなかで、あの禍々しいモノを呼び込んでしまう。

ただそれだけのことなのに、少女は、あの花火の見えるベランダの欄干に立つ。こうして事故は起こるのだけど、そんなモノは、そもそも、そこにあるべきではない。あまりにも幸せだったり、あまりにも花火が美しかったりするコトで、事故が起こるのなら、それはただの偶然であって、けっして必然ではない。ならば、もうひとつ偶然があるだけで、事故は起こらないかもしれない。たとえば部屋にカメラを忘れてしまうような、そのカメラを取りに帰るのが小さな妹ではなくあの橋の欄干の少年であるような、そんな偶然さえあれば、それだけでよい。

そんな偶然のコト祝ぎのなか、ぼくらもまた、生き延びてゆくというわけだ。
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