LISTEN リッスンの作品情報・感想・評価 - 3ページ目

「LISTEN リッスン」に投稿された感想・評価

マサ

マサの感想・評価

4.0
とても良かったです。

想像してた内容と違い…

見て良かったと思いました。

てっきり感動するのかなと思いましたが…(泣くという意味)
そんな事はなく見終わってスッキリした気分になりました。

音楽 ダンス 表現方法
ろうあ者の方も健常者の方も
何も変わらない同じだと思いました。
ナガ

ナガの感想・評価

4.2
 内容はブログ記事と同様になります。

【生命の音が紡ぐ「音楽」とは?】

本日少し遅くはなりましたが、予告を見て絶対鑑賞しようと心に決めていた作品「Listen」を見てきた。この作品はサイレント映画でかつアートドキュメンタリーという少し珍しいジャンルの映画である。本作の出演者たちは監督も含めて全員が聾者である。そして彼らがこの作品で問いかけるのは「音楽とはいったい何なのか?」というメッセージである。それに合わせて、劇場では耳栓が配布されるという少し変わった試みもなされている。そのため耳栓をすることで鑑賞者は純粋に出演者たちが織り成すアートを堪能することができるのだ。そんな少し特殊な映画に非常に感動したので、今回の記事を書くこととした。

私は映画の前に流れる予告が終わったのを確認すると、配布された耳栓を耳につけた。するとほぼ完全に外部の音が遮断された。先刻まで映画の予告映像を大音量で聞いていたこともあってか、予想以上の静寂にしばし驚きを隠せなかった。しかし耳という感覚器官をシャットアウトしたことで、徐々に自分の感覚が研ぎ澄まされていくのがわかった。すると私は徐々にある「音」を感じ始めた。それは自分の心臓の鼓動、生命が息づく「音」である。普段さまざまな「雑音」に囲まれて暮らしている我々がなかなか気づくことができない「音」。その「音」がスクリーンに流れる出演者たちのサインダンスと交錯する。自己表現とはまさに生きることそのものであるということを再確認させられる。映画を作る段階ではこの作品は完成していないのである。映画館で我々が自分の生命の「音」を聞きながらこの作品を見ることで、「Listen」という映画体験が完成するのである。まずこの点に感激した。

 次に音楽に音を使わないということに対する純粋な驚きがあった。これに関して監督が、伊藤亜紗さんの「目の見えない人はどう世界を見ているのか」という書籍を挙げて話されていた。この書籍は目が見えない人にとっての美とは何かにフォーカスした内容ということである。ここで注目すべき論点は、目の見えない人は、目が使えないのではなく 、目を使わないという捉え方である。目が見える我々は情報の大半を視覚に頼ってしまう。しかし、目が見えない人は、視覚から情報を得られない代わりに視覚以外の感覚から情報を取り入れることに特化しているということである。視覚情報に頼らない新たな世界の捉え方というまさに発想の転換なのである。
 この著書にこんな一節がある。「私が捉えたいのは、『見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態』ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す、体の特徴、見えてくる世界の在り方、その意味を実感したいのです。」つまり障害は欠落ではなく、差異なのであるということを伊藤氏はその著書で述べているのである。
 このことを踏まえて考えると、 耳栓をして聴覚情報を遮断しただけの我々は確かにこの作品に登場する人たちの状態を察することは到底できないであろう。それは重々承知である。しかし、我々はそんな声を出せない音楽ではなく、声を出さない「音楽」を生き生きと表現する出演者たちの姿に、生きることの力強さのようなものを感じるのである。彼らは我々が一般に知るところの音楽というものを知らない。つまり彼らにとっての「音楽」は、自分の中に流れる生命の流れを、感情をダイレクトに体全体で表現することなのである。

 この作品は公開されてから少し時間がたってしまったため、上映している劇場もかなり少なくなってきた。サイレント映画と聞くと敬遠されがちなのかもしれませんが、思い切って飛び込んでみてほしい。出演者たちの心から湧き上がる思いを体現したサインダンスにきっと何か感じるものがあると思う。これはまさに映画を超越した究極の体験と形容するにふさわしい。 この記事を読んで、1人でもご自身の鑑賞予定リストの一つにくわえていただける人がいるならば幸いである。
n0701

n0701の感想・評価

2.0

このレビューはネタバレを含みます

ほとんどお遊戯会レベル。

表現しているのはかなり広い意味での音楽。

風や波や感情を身体で表現する「ごっこ遊び」。特にクオリティが高いわけでも、身体がキレてるわけでもない。言わば低いレベルでの演劇。

音楽は本当は型にはまらず、個性的で、好きなように描き、他の人と組み合わせてハーモニーのように重なり合うもの。

そんな感じだったが、いやいや。

音楽は極めて型にはまったものだ。
ダンスもまた然り。
だから、誰もが共感し感動できるもの。

もしそれを独自性だけで描こうとするなら、それはただの自己満足だ。

この映画を始終取り巻くもの。それが自己満足だ。表現してるのはなんてことない。自分だ。

だが、残念だけど、何かが足りない。たぶんそれはクオリティだ。ただ自由気ままに好き勝手やりたいようにやるのは、狭いレベルでは別に勝手にやればいい。しかし、観ている方は苦痛だ。

スキンヘッドのおっちゃんと音楽の成績が1だったおっちゃんだけが救いだ。

それ以外は正味お遊戯会レベルだった。
Marie

Marieの感想・評価

-
私にはちょっと大きなものすぎて、スッと受け入れていいものなのか、普通に生きるのが難しくなった。

表したいとか、表現したいとか、伝えるとか、ここ最近の私にとってなかなかうまくいかない部分が多くて、迷うことが多い。それがいいことなのか悪いことなのかも全くわからなくなってしまう映画だった。

あと、耳栓。
私は見ず知らずの隣にいる人の出す音や、自分の周りにある音をものすごく大切にしていたことに気づいた。
音がないことを怖く感じた。
不便とかそういうことだけじゃなくて、悲しさが悲しさでは足りないような。もちろん愛も完全に表しきれないような絶望感。
だから画面の中の人たちをじっくり見ることでしか耐えられない時間だった。

楽しそうに笑ったり、怖い顔したり、そのままの姿で、身体で表す彼らは堂々としていて、美しく見えた。愛しいというよりも、愛しさがわかった。まっすぐだった。

この映画を見てから、しばらく経って好きな人と手をつないだとき、本当に大切なものに触るとき、気持ち的に、穏やかで軽やかで、大切だってことが伝わった気がした。こないだ手をつないだ日、なんだか違ったと言われてからは、この映画の影響だとわかった。

私は、音楽が好き。
真っ暗な部屋で布団に潜り目を閉じて聴く音楽も、映画を音消しで観るのも好き。心で聴くというのは、音で、目で、もちろん肌も使えばすごく大きな音で聴こえてる。逆に言えばこれを見て、いくらでも、聴かないことができる、と突きつけられたような気もした。聴いてないでしょ、と言われているような。

だからなんだか、この映画を気安く人には勧められなかった。ひっそりと、私にはこの作品で感じたものが多すぎたのかもな、と残しておきます。
完全無音の上映なんて、いまやフィルムセンターのサイレント映画の時ぐらいにしか味わえないもんだが、いや、ここにありました。しかも耳栓配布という試み。たとえばサイレント映画を無音で見ても、咳払いやちょっとした衣擦れ、時として寝てるおっさんのいびきなど聞こえてきてしまうのだが、耳栓をするとそういうのは一切シャットアウト。ぼくら聴者にとってきこえてくるのは身体の内部の音のみ。呼吸音、コーヒーを飲み下すときの喉の鳴り、etc,etc。
「ろう者の感覚を疑似体験する」というような目論見といえるのかもしれないけど、しかし聴者たるぼくらにとって完全にそういうことができるかというと無理なのであって、どうしても身体の内部音は聞こえてきてしまうのだから、正確には、視覚のみを最大限に強化することによって、「これらの身体の動きが「音楽」となるとはどういうことか」ということをぼくらに想像させる、という働きが耳栓によってなされる、とでもいうか。手話を解さないのであればなおさらなのだが、画面上で展開されるこれらの身体の動きが演劇/舞踊の営為とどこでどう差異化されるのか、ということも考えてみなければならない、とこの映画は問うているようだ。そしてそれがどういうことなのかは正直ぼくには(アタマでは理解しても感覚としては)よくわからなかったし、まあこの映画一本だけで分かろうとすることも無理な話ではある。しかし少なくとも、音が鳴っていれば音楽である、ということが絶対ではないということはいえるのであって、「真の無音」でもひとはダンスできるし、音楽的な愉悦とでもいうべきものが、「音が鳴っているかどうか」ということだけからやってくるものではない、というのは確かだろう。あとは、他者に対する想像力と探求と交流からいろいろわかってくるんじゃないかな。上映終了後、見ていたひとたちはしばし呆然としていたようで、なかなか席を立てなさそうにしてたのが印象的だった。それだけ、新しい異文化に素晴らしい形で触れられたということなのかな。

ところで、トーキー以前の映画って聴覚障がい者をさほど排除しなかっただろうな、とも思った。たとえばいま、フィルセンで無音でぼくらがサイレントを享受しているのって、ろう者のひとたちとさして鑑賞条件は変わらない(まあ、昔は伴奏や弁士付きだったからちょっと違うけど、映画そのものの大枠を楽しむなら、音はなくたって構わない)。トーキー(そもそもが音が付帯しない写真が動くものとしての「活動写真」から、そこに音が必ず付帯するようになった「映画」への変化)ができたということには、ろう者を映画館から追い払うことになったという側面があっただろうし、それだから「バリアフリー映画」が作られるようになった。おそらくは今後、この映画のように、ろう者を主たる受け手であることを前提とした(サイレント)映画も作られることになり(昨年の「ザ・トライブ」はそうした試みの一種だと思う)、ぼくら聴者が手話への字幕補助によって「バリアフリー鑑賞」をする、というような(ろう)文化の発展、っていうのもありうるのではないか、とも考えた。

あと手話でラップしてフリースタイルバトルしたりしてる人とかいるんかな。いるよな。みてみたい。
無音の映画、その視覚は音楽。

聴覚と同様に、それ以上に、自由に何かを共鳴させて、私の胸に新たな波長を教えてくれた。

言葉って難しい…とインタビューで女性の方が仰っていましたが、本当にそう思います。顔の無い言葉に翻弄された現代社会に対し、相手の目の前で気持ちを伝える手話の丁寧さ、繊細さ。そこから広がる美しい演奏が、自分の中で心地好く鳴っていました。

“観たもの”を“聴こえる”ととらえるこの感覚、それを表現する言葉をまだ知らない喜び。
観た! 素人っぽくない... 時折入るダンスを踊っている人たち魅力的☆
Tetsuka

Tetsukaの感想・評価

4.0
知識も大切だけど、うちから湧き出る何かも大事だよとシンプルに思えるのでオススメ。久しぶりにパンフ、というか解説本も買った。
芋

芋の感想・評価

4.0
彼らが刻んでいるリズムは常に揺れ動いていて、きまぐれで、本能的で、官能的で、いつの間にか自分が刻んでいるリズムが定型化されてしまってることに気づかされた。
無音の空間で唯一聞こえるリズムが少しずつ大きくなっていくとともに自分の中で散らかってたものが全部棚に戻っていった感覚。
特に印象的なのはどこかのギャラリーにいるカップルの場面。誰もが最も身近に感じられるリズムである鼓動がテーマになっていてはっとした。
どんな映画館よりも閑かで落ち着いたアップリンクだからこそ、より楽しめたように思う
sicklychic

sicklychicの感想・評価

3.6

エアコンの雑音と、お客さんの吐息、耳栓特有のさわさわいう空気の音の中、聾者の大きなダンスとも演奏とも言える映像に、何度か涙が出そうになりました。

上映直前に流れていた音楽を反芻しつつ、その内抑揚に合わせて音が鳴っているような気になります。記憶の中の音楽と、彼らの動きをいつのまにかリンクさせて聴いてしまったり。白い衣装で楽しそうに奏でる彼らの音は、まるでゴスペルのようでした。

映画と音楽がいかに密接か感じると共に、「音」という、普段当たり前に享受している概念を再認識。ライブに行って自然に体が揺れたりするけれど、溢れる音は目に見える形になるんだと思いました。