Ricola

ヨーロッパ横断特急のRicolaのレビュー・感想・評価

ヨーロッパ横断特急(1966年製作の映画)
3.7
ジャン・ルイ=トランティニャン追悼を契機に、以前からずっと観ようと思っていたこちらのアラン・ロブ=グリエの作品を鑑賞。

物語世界と現実世界が重なり合う。現実と非現実が交錯した、混沌たる美しき妖しい迷宮へと我々を導く。


ヨーロッパ横断特急に乗っている、映画の製作者たちと俳優トランティニャン、そして彼が演じる人物と他の俳優たちの演じるキャラクターが、二つの世界を行き来する。
この二つの軸を結びつける、または交差させるのに、いくつかのモチーフが用いられていた。

例えば鏡を用いたショット。
鏡は冒頭街中を歩くトランティニャンを捉える。また、列車の座席の上にある鏡に映る人物のショットのタイミングで、「地の文」の世界に戻る。鏡は状況や人物をそのまま映し出すからこそ、二つの世界において信用できる良心的な存在としてそこにいる。

現実に存在するモノも、全てそれそのものではなく、現実と非現実を交差するモチーフに過ぎない。
例えば走り続ける列車。列車の窓から見えるいくつもの線路が重なっていくように見えたり、スピードが増すと、線路は抽象的な単なる線の集合体へと変化する。
また、窓を覆うシャッターカーテンも平行線という記号として表出される。
メトロへ向かって降りていくエスカレーターや海沿いに立ち並ぶ巨大なクレーンなども、もはや記号である。線としてまたは二つの世界をつなぐモチーフとして機能する。
これらは本来の現実的な役割を果たす機械や道具としてただそこにあるだけではなく、無機質で抽象的な記号としてメタ的な視点を担っているのだ。

カフェでビリヤードの玉の突く音と、店内に次々と入ってくる人の扉の開閉音が響き合うシーンにおいても、同じようなことが言えるだろう。ビリヤードをすることや扉を開ける開くという、人物が行う行為として描かれているのではなく、そのリズムと音が主役なのである。
つまり、状況や心情をこのシーンで読み解くべきというより、しっくりくるものの奇妙な音の組み合わせにただ翻弄されていればいいだけなのではないだろうか。

物語世界で起こったことなのか現実世界で起こったことなのか。
常に自分が今どこにいるのかおぼつかないまま、物語は走り続ける。
もはや記号でしかない全ての事象に呑み込まれながら、重なり合うメタフィクションの世界に酔いしれるばかりだった。
Ricola

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