Daisuke

スイス・アーミー・マンのDaisukeのレビュー・感想・評価

スイス・アーミー・マン(2016年製作の映画)
4.5
[もう一度]

※また長めの個人的解釈を書きました
※前半ネタバレ無し、後半ネタバレありとさせていただきます(ここからと書きますね)


職場の映画好きな方から見てほしいと言われて鑑賞。とても感動したのだけれど、「意味がわからない」「下品すぎる」と言った感想を目にし、個人的には語りたい事がある作品だったため久しぶりに長々と感想を書いてみたい。
まずこの映画を監督したDaniels「ダニエルズ」という二人の監督は、以前はMVを撮っていて、この監督が好きな方いわく「Cry Like a Ghost」というMVが、この作品の原型では?と言っていました。

「Cry Like a Ghost」
https://youtu.be/i380DwcJxxM

この作品では1人の女性が森で彷徨い、現実と幻想が重なる奇妙な世界へと誘われるような構成になっていました。

この「スイス・アーミー・マン」もまた、1人の男性が森を彷徨う物語でしたね。
冒頭のオープニングからちょっと振りきった驚きの演出がありました。あの「ガス」に関するネタはこれ以降この映画全編にわたるほどしつこく繰り返されますが、実はある構造と、主人公の流れへ直結している素晴らしい演出だと思っています。(詳しくは後ほど)

個人的にはその驚愕のオープニングと同じくらい気になっている演出がありました。
彼は歌を歌っていますが、口パクがそのままバックの音楽となっていく演出。これは当初「MVのような演出だなあ」と思っていました。確かにMVではあたりまえのようにやっていますが、映画では現実から急に音楽が流れる事はありませんから、こういった演出は使われる事はありません。
しかもこの演出は後半でも出てきます。
何か意図的な風にも見えてきて、最後まで見た自分は、この「口パクからの音楽」という演出は、森を彷徨う事や死体と話す謎めいた世界観の何かキーになるものだと感じました。

彷徨った場所。
主人公と共にする死体。
ガスの意図。
口パクからのバックミュージック。

これらを皆さんはどう見たのでしょうか?
この後、恥ずかしながらまた私の極々個人的な見方を書かせてもらいます。


----ここからネタバレ---------------





まず、彼は一体なぜあんな事になっていたのか。これは中盤から後半にわかるように「人生」を彷徨ってしまったからだと思います。バスの中で気になった人へ声をかけられないほどに弱い自分。父とのコミュニケーションも破綻している(ように見える)。
「森を彷徨う」というモチーフは富士の樹海を彷徨うある映画(タイトルは伏せます)のように、人生のいきずまった人の心の迷宮のように見せる事はよくあり、今作もそういった表現の一つではないかと感じました。
つまり具体的にどういった事があってあの場所に行ったのか、という事はさほど重要ではないように思い、私としては「彼は人生の道しるべを失った状態」として抽象化された世界を彷徨っているのだと思って見ていました。
それはある意味であの場所は「煉獄」であったという事かもしれません。
煉獄とは生と死の中間を位置する場所の事であり、死体が生き返って話すという表現も、煉獄のような空気を感じさせた一つです。
さらに言えば彼の口パクからスタートするバックミュージックはフィクション性を際立たせ「この映画は彼の中の世界」だというMVの中のような閉じた世界感として機能していたように見えました。

次に喋る死体について。
これはラストの解釈は一体置いておいて、個人的には「主人公自身」として見ていました。ただ「実際は死体で、彼の妄想によって死体と喋っている」と簡単に結論づけるのではなく(そもそもそれだとラストは?となってしまいますよね)、あくまで「主人公が自らと対話するための存在」として登場させているように思えたということです。
主人公は急に話始めた死体に対し、赤子に学習させるように1からこの世の理を教えていきます。
これは主人公がもう一度生まれ変わりたい欲求のようにも見えます。
しかし、そうする事で自分が話したくない事や本当は「こうありたい」と願う事と向き合う事になっていく。ある意味では自己啓発のような雰囲気にも思えます。
彼が真に向き合っていく事で少しづつ森(人生の迷い)から出口を見つけていく。
そんな物語のように見えました。

死体はオープニングから「オナラを出す」という行為を繰り返し、その度に主人公は救われていきますが、これもまた中盤で死体(もう1人の自分)に問われるように、隠れてオナラをするという事や、本当はオナラを恥ずかしい行為として隠したくない事もわかってきます。
この自分の恥ずかしい部分を本当は見せたいというのは、心理学的にも「本当の自分を周りに見せたい」という「コミュニケーションの再生」を願う心理として見ることができると思っています。
つまり主人公の彼は人生の中でコミュニケーションというものに迷いが生じ、それをなんとかしたかったのはではないでしょうか?だからこそ、最後はとても感動的でした。なぜなら主人公は皆の前で恥ずかしかったオナラをするのです。もちろん動かなくなった彼のためにですが、それでも主人公はひとつ自分の殻を破った瞬間が描かれています。
周りも動く死体を見て驚愕する中。
主人公が死体へ耳打ちをします「さあ、行くんだ」(字幕では何も出ていませんが、吹き替えだとこのように言ってます)
死体の彼は笑顔で去っていきます。

彼らは道中こう言ってました「故郷をさがす」と。故郷というのは、おそらく主人公自身の「ユートピア」のようなもので、幻想であったとしてもそのために進むのだという表現が、あのラストなのだと思っています。
最後のエンドロールの歌詞が全てを表しています。


不安だ
不安なまま歩き回る
こうでないとダメ?
独りでいるためには

人への興味
だれでも持ってる興味
僕は無くしてしまった
ずっとずっと前に

でも希望はあるはずだ



現実でもう一度生きる事を選択した主人公は、助けてくれた幻想の自分(分離したファンタジーとしての自分)と一旦お別れする物語。

私には、そんな風に見えたのでした。
Daisuke

Daisuke