説明するなら「朝起きて、妻の香りを嗅いでキスをして、朝食をとり、歩いて出勤し、始業前に詩を書き、仕事をして、同じ場所で昼食をとりながら詩を書き、ポストを覗いて(その歪みを直してから)帰宅し、夕食をとった後に詩を書き、犬の散歩途中のバーでビールを飲んで1日を終える…を繰り返す映画」で済むのだけれど、言葉に出来ない様々な余韻の残る名作の誕生。
主人公の職業である路線バスの運行は、彼の生活そのものである「繰り返しとサイクル」のメタファー。彼がそこに大した不満や退屈を感じず生活出来るのは「詩作」(そしてそれはSNSのように誰かに共有するのではなく、あくまで自分の感情や思考のバランスを保つための極めてパーソナルな行為)があるからであり、どこにも属さない完全なる観察者としての視点(携帯電話を持たず、バスの乗客や行きつけのバーの客とマスターの会話に耳を傾ける)を持ち合わせているからに他ならない。
繰り返し映されるパターソンの街や建物、日常生活のディテールや人々の会話の中に仕込まれた伏線や、ちょっとした違い、アクセント(例えば「双子」とか)、何とも言えない感情の揺らぎを感じるようになれば、それは観客がすでに主人公やジム・ジャームッシュ監督の視点と同化している証拠。まるで主人公が紡ぎ出す詩の余韻を感じるように…。その意味ではこの映画そのものが「詩的な」作品なのだと思う。
何も起こらない物語。そして人生は続いていく。uh-huh…。
ポール・オースターの小説や、それを映画化した『SMOKE』を観たときのような感覚。その意味で「どうしようもなく90年代的」であり「ジム・ジャームッシュ健在!」と言いたくなる映画。次は、同じくジム・ジャームッシュ『ギミー・デンジャー』を観に行くぞ!劇中でさりげなく宣伝されてるしw