ローズバッド

パターソンのローズバッドのネタバレレビュー・内容・結末

パターソン(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

考えあぐねているうちに、頭が混乱している。
適切な単語の選択、整理整頓が出来ているとは思えないが書き記しておく。

『パターソン』は、この世界にある無限のディテールを、詩という言葉の形で捉えようとするパターソンを、詩的な表現で捉えた映画。

パターソン → 「詩で捉える」
監督 ーーー→ 「詩で捉える」を「詩的に映画で捉える」
僕 ーーーー→ 「詩で捉える」と「詩的に映画で捉える」を捉える

というメタ構造が、まず、頭を悩ませる。
それぞれ「捉える視点」の立場が違うからだ。
さらに重要な点は「世界を捉える手段」としての「言葉と映像の違い」だ。
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僕自身は、写真を撮ることを通じて「この世界はディテールとニュアンスで出来ている」という事を、自分なりに学んだ。
それには「意味は、この世界の本質ではない」という事も付け足される。
 
映画が好きで、こんなレビューで長々と“解釈”なんかを書いたりしてしまうけれども、映画の本当の楽しさは、言葉のレベルで捉えられる「物語」や「テーマ」ではなくて、言語化できない「ディテール」(顔・形・色・動き・テンポ…etc. 無限にある)にこそあると思っている。
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この映画自体が、詩のような構成で作られており、まるで「一日」が詩の「一行」のようだ。
そして、パターソンが発見する世界のディテール、例えば「双子」や「滝」や「白黒の丸」が、形を変えながら繰り返し登場するのは、詩の「押韻」のようだ。
「双子」や「滝」や「白黒の丸」は、「世界のディテール」としては、発見しやすい、かなり目立つものだ。
そして、映像として何度も繰り返すことで、さらに強調されている。
これらは、パターソンが一週間の暮らしの中で発見した「世界のディテール」として映像表現されている。
しかし、彼はそれらを詩に詠んではいない。
詩に詠んだのは「メガホン型ロゴのOhio Blue Tip Matches」や「祖父の唄の一行」などの、もう少し細かい「世界のディテール」だ。
彼は詩という言葉の表現を使って、それらに形を与え「世界のディテール」の不可思議を捉えようとしている。

……といった、本作における「世界のディテール」は、当然、監督が映画の中に作為的に「設置」したものである。
予告編に「IN THE SMALLEST DETAILS」というコピーがあったが、SMALLESTだとは思わない。
観客に解るように、大きく目立つように「設置」されたディテールだからだ。

詩が無駄な言葉を削ぎ落として洗練されるように、本作も無駄を排し洗練されている。
僕が、どうしても気にかかるのは「映画から削ぎ落とされた、もっと無駄なディテールこそが、もっと本質的な「世界のディテール」なのではないか?」という事だ。
「ディテールの発見」を観客に伝えるために、「ディテール」が大きく誇張されるというジレンマ。
監督自身も愛しているであろう「この世界のディテール」というものは、本来もっともっと細かいものであることは留意しておくべきだろう。
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「この世界の本質はディテールとニュアンスであり、意味は本質ではない」
と前述したが、「意味」は「≒言葉」といえるだろう。
詩作という行為は、不思議なものだ。
「≒意味」である「言葉」を使って、「意味」を超えた「ディテール」という「本質」を捉えようとする行為だといえるだろう。

「言葉」という手段に対し「映像」という手段は、世界の細密なディテールを捉えるのに際して、直接的で効果的な気がする。
例えるならば、捉える「アミの目が細かい」という感じだろうか。
しかし短絡的には言い切れない。
これを考えるには、「言葉」「映像」といった手段の持つ意味は、すべて自己の意識の中でしか通用しない事にも留意しなければならず、つまり認識論の話になってくる。

この世界はディテールとニュアンスで出来た、意味のない混沌であり、それを観察する意識もまた、意味のない混沌である。
圧倒的な混沌に対し、手の届く可能な範囲の少しだけを切り取り、形を与えることで、もっとよく観察するという行為が芸術制作である。
詩や映画だけでなく、例えば陶芸家なら、色や手触りや絶妙な曲線などに、それは宿るだろう。
そして、それは、芸術作品として形をあたえなくても出来ることであり、「芸術を制作しない芸術家」もたくさんいるだろう。
要するに芸術とは「混沌をよく観察する行為」であり、僕もそれを愛している。

パターソンは、詩を使って「混沌」を捉えようとしている。
ジャームッシュ監督は、パターソンという架空の人物を創造することで、「混沌を捉える」芸術への愛を伝えようとしている。
『パターソン』を「日常を肯定してくれる映画」だけで捉えてしまうのはもったいない。
観賞からずいぶん経っても、思考の整理整頓がつかず、自分の頭が混沌としてしまう。
特に「言葉と映像の違い」は、僕にとって積年の議題であるが、ここまでとする。