もともと全世界での配給権を持っていたパラマウントが改変要求をしたのに対し、アレックス・ガーランドとプロデューサーのスコット・ルーディンが拒絶したのをきっかけに、アメリカ、中国以外はネットフリックスが配信する権利を買ったということなのだそうだけど、劇場で観たい世界観、クオリティなので、パラマウント! ばか! という気持ち。
わたしたちの既存の知から見た「超常現象」が起き、変異種が存在する、シマーという謎の地域の調査を通したバイオホラーのかっこうになっているのだけど、キーワードは「リフレクション(反射)」で、言語習得や振る舞いといった知を、本作は巡る。
リフレクション(反射)が細胞内でも起きて変容する調査メンバーと、シマー内部の生物が外部の言語や振る舞いの模倣とが呼応する。
こうした哲学的ななぞりが、原作の小説ではどうなっているのかが気になるところだけど、抽象度の高そうなテーマを、ガーランドによるサイエンス・フィクショナルな世界は見事に映画ならではの具現化に成功しているとおもう。
太陽の光、水、爽快にも鬱蒼にも見える草木といった、わたしたちが容易にイメージできそうな「未開の地」感に、視覚効果を繊細に凝らし、たとえば通奏的に、空にはシャボン玉のように様々な色が混じり合った膜がはられているような視覚効果が施されているのだけど、そうした描写がとてもおもしろい。
元軍隊にいて現在はジョン・ホプキンス大学で生物学を教えるレナが、極秘任務でシマーに行き、行方不明になっていた(かつて隊で知り合った)夫・ケインが戻ってくるところから始まり、再調査に向かう隊にレナも参加する、という話のスジになっている。
前隊が男性だけ、今回は女性メンバーだけ、というところにも何か意図があるのだとおもう。
たとえば、既存の、西洋優位主義的な社会構造では、権力関係やリソースの配分で男女のジェンダーで非対称であるように、アカデミアにおいても同様で、と考えるならば、先駆者としての男性隊がシマーの把握に失敗して全滅した一方で、女性隊はどうなのか、という問いかけと解釈できなくもない。
その隊のメンバー5人の構成は、ナタリー・ポートマン(レナ)、ジェニファー・ジェイソン・リー、ツヴァ・ノヴォトニーと白人3人、ヒスパニックのジーナ・ロドリゲス、アフリカン・アメリカンの血を引いてそうなテッサ・トンプソンとなっているのだけど、ロドリゲス(役柄としては救急医療隊員、他3人が学者)の口調が粗雑なかんじに訳されて程、一方他の4人は女ことばがまぶされている点が気になった。
本作は、先述したように、リフレクション(反射)をテーマに言語や振る舞いの習得が、シマー内部の突然変異体のようなクリーチャーたちにもうかがえ、つまり、異なる存在が互いを認知し合う『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)にも通じるテーマが存在するわけで、そこで、学者という言葉を駆使して「未知」に取り組む存在が、一様に女らしさをまとっているとは考えにくい(もちろん、現実の学者の中にもジェンダー化された人々も存在するけれど)。
先ほど、「突然変異体」と書いたけれど、それはわたしたち、レナたちが「知っている」世界や生物の有り様とは異なる、という意味でそう見えてしまう、理解してしまうだけであって、シマーの世界では一般的なことかもしれないし、というか、わたしたちの世界でだって未だ知りえていないものは膨大にあるわけだし、これからどう変わっていくのかもわからないはず(という点を『アナイアレイション』は示唆してもいる)。
劇中で、白人と黒人のセックスシーンが挿入される。
そのシーンをどう理解したらいいのかわたしにはまだ消化しきれていないのだけど、かつてアメリカでは禁じられていた行為が、また、わたしたち日本での価値観からしても「異人種」同士の交配は(ネガティヴな意味づけでなく、「ハーフはかわいい」といったポジティヴな意味も含め)特異とされている、ということに対するなんらかの意図が潜んでいるような気がしている。
変異と反射、サイエンス・フィクションで可能な知的な問いかけを、バイオホラーのエンタテインメント性に落とし込んだ快作。