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ゴッホ~最期の手紙~の映画を見る猫のレビュー・感想・評価

ゴッホ~最期の手紙~(2017年製作の映画)
4.1
ゴッホは自殺した。
幼い頃、伝記を読んでからずっと定説だと信じていたので、この映画のサスペンスの根幹を成している諸説に、少し驚かされた。
絵画とは本来、移り行く世界を、一瞬を、「静」の世界に繋ぎ止めようとする試みなのかもしれない。
けれど、なぜだろう。
ゴッホの絵は、不思議と「動」が似合う。
それは一体、何故だろう。
さて、私事だが今夏、ヨーロッパを旅し、各地の美術館を巡り歩いた。
その中で一際に、目を惹いた作品があった。オルセー美術館所蔵のゴッホ「ローヌ川の星月夜」である。 
分厚く、力強く、禍々しく。
重ねられた何層もの色彩は、迫り来るようにこちらの視覚に訴えてきた。決して大袈裟な表現ではないと思う。
見たい。
もっとゴッホの絵が見たい。
ほぼそれだけを理由に、ゴッホ美術館があるというオランダのアムステルダムに向かっていた。
ゴッホの絵は、分厚い。
絵の具を「乗せている」という表現が恐らく近しいくらいの筆圧。
まるで指紋のような絵の具の厚みに、彼の筆の「動き」を想像せずにはいられない。
それは決して、世界中に拡散されている一ミリの厚さもない写真では、知覚できないものだ。
「静」を司る絵画を動かすという斬新な試みで成り立つ、この映画。
これを素直に楽しめたのは、他でもないゴッホの絵が主役だったからではないか。そう思わずにはいられない。
彼の絵画が想像させる、画家の手の動き。
それが映画のもたらす「動」が反発することなく、すんなりと融合しているようだと感じた。
ゴッホはその狂気的な人物像、生前一枚しか絵が売れなかったという人生の悲劇性から、神格化されていると意見もある。
それでもやはり、あまりにも皮肉な話だろう。
自分なんて死んだらいいと、そんな思いで天に召された男の絵に、死後100億円以上の値がつけられる。
誰もがゴッホの絵を手放しで称賛し、天才だと認める時代、それが現実となったのに。
本人も、彼を支え続けた弟も、悲嘆に死して、それを知らない。
思わず、映画の最後には涙を流さずにはいられなかった。
余談だが、私が一番好きな絵は、ゴッホ美術館所蔵の「花咲くアーモンドの木の枝」という作品。
ゴッホの死後、一年も待たずに病死してしまった弟テオ。
テオの妻の手のうちに残ったのは、売れない何百もの義兄の絵。
そして僅か一歳、父親の顔も満足に覚えられなかった赤子、ヴィンセントだ。
「花咲くアーモンドの木の枝」は、そんなヴィンセントの誕生祝いに、彼の幸せを祈ったゴッホによって描かれ、プレゼントされた作品だ。
自分と同じ名前の甥の誕生への祝福を、自分の名を息子に与えてくれた弟夫婦に感謝への託して。
ゴッホ美術館で聞いたこの絵のオーディオガイドは以下のような言葉で締められていた。
「そして後に、ヴィンセントはこのゴッホ美術館の創設者になりました」
死しても尚、伝える人がいさえすれば、我々は人の記憶のうちに行き続けることができる。
時には、絵画として。
時には、映画としての形を成して。
長くなったが、この映画を気に入った方は、アムステルダムにいく機会があれば、ぜひゴッホ美術館に訪れてみてほしいと記して、終わりにしたい。