純

婚約者の友人の純のレビュー・感想・評価

婚約者の友人(2016年製作の映画)
4.1
孤独を他人の優しさで埋めて生きるひとはきっといつまでもひとりぼっちのままなんだろうなと虚しくなると同時に、その優しさをどうか自分のために使ってあげてねと声をかけたくなるくらい優しいひとが、遠くない未来で幸せになれますようにと静かに願いたくなるような、そんな映画だった。極端な寂しがり屋も我慢強く優しいひとも、それぞれの弱さが救われたなら、赦されたなら、どんなにいいだろうね。

真実や嘘はどちらも絶対的善でも悪でもないし、きっと私たちが自分で背負ったり守ったりしないといけないものだ。主人公のドイツ人女性アンナは恋人を戦争で失って、色のない世界を生きていた。そこに突如現れたフランス人のアドリアンの奇妙な過去と人間関係が、彼女の人生を大きく狂わせていくことになる。

ほぼモノクロで展開される本作は、色のない描写でアンナの死んでしまった感情を表しているのかなと思う。基本的に喪服を身に纏う彼女の目は曇っていて、未来を見据えることができていない。自分が生きているという意識が、むしろ心を腐らせてしまっていたのかもしれないね。でも、アドリアンとの時間を通して、見える景色が少しずつ色づいていく。ゆっくりと滲み出るカラー映像は、そんなアンナの心の躍動を上手く表現していたと思う。

戦死した恋人を忘れたくない一心で、自分の心に蓋をしたアンナが、勇気を出して一歩踏み出したのに、現実はなんて残酷だったか。一度は裏切られたという感情が生まれただろうけど、アドリアンと同じ苦労をして、本当に苦しい思いの中で「赦す」という決断を、彼女はしたんだもんね。正義心や優しさを持ち合わせた彼女のことだから、本当にたくさんの思いが胸中を渦巻いていたんだろうな。相手への呆れや憤りだけじゃなくて、自分を薄情だと非難したり、結局は自分の気持ちの軽さのせいだと自己嫌悪に陥ったりしてしまったんじゃないかって、心配になってしまう。でも、きっとこの作品はアドリアンだけではなく、アンナをも赦す映画なんだよね。

話の展開としてはアンナがアドリアンを赦すというストーリーだけど、違う苦しみ方をするアンナをも解放してあげたいという気持ちがこもっている作品なように思う。フランツという存在に苦しめられるのは、アドリアンとアンナの両方だ。だから、きっと原題はアンナでもアドリアンでもなく、ふたりを縛るフランツになってるんだろうななんて思う。いろんな思いを押し殺したり沈めたりして、ふたりとも赦されていい人間なんだって、黙ってるのに囁いてるような感じがするタイトルだ。

きっと、心の中の真っ白な部分を守りながら、黒に染まらずに黒と共に生きるということはとんでもなく難しい。アドリアンの純粋無垢な無邪気さは愛らしいけれど、無意識に他人を蔑ろにしてしまう身勝手さと紙一重。傷跡が深ければ何をしてもいいわけではないよね。自分ひとりで背負うべき苦しみを、罪悪感を、他人に背負わせるのは卑怯だ。卑怯で、臆病で、弱虫で、無責任な行為だと、何のためらいもなく言い切っていたい。それでも、修復できないほどに心を壊して、えぐって、ぐちゃぐちゃにしてしまう戦争が、この世界に確かに存在した。そして、アドリアンはその地獄を見たひとでもあるんだよね。アドリアンがその純粋さでしてしまったことは最低だけど、彼だって本当に本当に可哀想な被害者で、あなたは悪くないんだよって言葉ひとつがほしくて、元敵国のどんな罵声にも差別にも耐えたんだって、そう思ったらもう、きっと当時の兵士たちの疲弊した心の弱さを責めることなんて、できなくなってしまう。この「それでもそれでも、」の繰り返しが、この映画のどうしようもない悲しみに繋がってるんだろうな。

だから、「それでもね、」と言わせてもらえるなら、苦労や優しさはひとに見せびらかすためなんかにあるんじゃないって、私は言いたい。それらは、大事なものを守るために使うものだよ。アドリアンは耐えきれなくなってしまって、秘密も自分の弱さも願いも全部、他人に晒してしまった。でも、自分が苦しんでること、自分が誰かのためを思ってしたことは、誰かに見てもらう対象じゃないんだよ。辛かったねとか頑張ってるねとか、そうやってわかりやすく言ってもらわなきゃ頑張れないようなら、それは苦労や優しさなんて呼び名を持つにはあまりに未熟で粗末だろ。アンナは神父さん以外の誰にも打ち明けず、ひとりで背負っていこうと決めた。別に向き合う強さはなくてもいい。放り出す弱ささえなければ。必要なのは、責任を負う勇気や覚悟だ。苦しみを乗り越えるという行為も、喪失からの再生も、必ずしも美徳と言い切ることはできなくて、可哀想なひと、報われないひと、いつも誰かのためにそっと身を引く優しいひとはたくさんいる。それでも、そのひとたちが大事なものを守ろうとして見えないところで流した涙や汗は、何よりも美しく、焦がれるだけじゃ決して手に入らないやさしい形をしている。

興味深かったのは、思い出の場所を訪れるという行為。アンナがアドリアンと共に時間を過ごした場所、架空の物語が語られた場所を訪れるというシーンが、作品中に何度も何度もあった。そもそも、アドリアンがドイツに来るという設定も含め、この映画では「訪れる」という行為が最初から最後まで通して描かれていた。その場所に足を運ぶというのは、一種の儀式と言えるんだろうな。心の整理をしたり、過去を埋葬したり、目的はひとそれぞれだけど、自分と誰か、何かを結びつけたり切り離したりするための、けじめをつける、そして約束をするという儀式だ。

アンナがマネの「自殺」を観にルーブル美術館を訪れ、死の気配が呼び覚ます生への執着を描き切ったのも、大きな意味があるんだろうと思う。彼女が思い出の場所を決別の場所に選んだこと、この映画が生きることへの究極の肯定、赦しの作品だということを、力強く示してくれるシーンだった。

一言で言い表すのはあまりに困難だけれど、歪みや曇りをこんなに大事に扱ってくれる映画があることが私たちにとっての救いのひとつであるのかもしれないと、そう思わせてくれたことにありがとう。
純