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美しい星のnucleotideのレビュー・感想・評価

美しい星(2017年製作の映画)
2.0
去年の薔薇は丸く小さく、死んだ睾丸のようであった。かぼそく風に揺れる枝頭にあって、乾き果てた花弁が時折灰のように崩れるために、崩れた残りの花弁はジグザグの縁をしていた。
羽黒はその花弁に手を触れて、さらにその縁を欠いた。すると、指はほとんど力を入れていないのに、薔薇は壊れて彼の指紋をこなごなの破片でまぶした。
生きながら焚刑に処されて、形を保ったまま灰になった薔薇、…悪の美しい二重の形態。ー羽黒は確信していた。この世の形態はみんないつわりであり、滅亡でさえも形態をもち、その形態にあざむかれていると。
実際、人類の滅亡を惹起するのに、彼は力を用いる必要があるだろうか。今しがた彼の指が、かすかに触れるばかりで崩壊した薔薇のように、人間の世界も潰え去るのではなかろうか。いや、すでにそれは死に絶え、ただ形態だけを保っているのではなかろうか。

三島 由紀夫『美しい星』



三島の原作が発表された1962年当時は、東西冷戦の緊張や核の脅威といった世界終末の恐怖が、皮膚感覚のレベルで感じられた時代だったであろうことは想像に難くない。日本に於いては、戦後から数えて17年という年月を考えても、その文化的な傷や人々の記憶の膿は未だ生々しかったことと思う。そうした時代背景を基に展開される、大杉重一郎と羽黒助教授による宇宙的見地に立脚した思想戦は、果たしてどれほどの迫力と興奮と空恐ろしさをもって当時の読者の脳裡に映ったことであろうか。

はっきり言ってこの映画化は失敗だった。核の脅威から環境問題へという改変は、その時代性を見つめた三島の原作をして直ちに矛盾するものではないが、しかしその結果「宇宙人」の魅力を大きく削ぐ結果となってしまったことは否定できない。大杉一家にしろ、羽黒助教授(映画では黒木に吸収されてしまった)にしろ、宇宙人であるということは単なる彼らの自称であって、世界規模の問題を論ずる一種のエクスキューズであり、彼らの(特に羽黒助教授の)宇宙人的な振る舞いが、翻ってナチの選民思想と混淆した人間悪の結晶であるというアイロニーを全くの無に帰してしまっている。

未練がましく釦(ボタン)を出すくらいだったら最初から現代における核の脅威をテーマにすればよかったではないか。その合間に環境問題への提起を掲げることで、観客の側で環境への危懼と書き換えることも可能だろうに。それともあの空っぽの釦は、もはや核の脅威を議論する時代ではないとでも言いたいのであろうか。仮に何らかの理由で扱えないテーマだとするならば、それに匹敵し得る現代の脅威を提示しなくてはならないし、それすら出来ないとするならば、そもそもこの原作を採用したこと自体間違いだろう。

先に引用した「灰の薔薇」がメタファーになっているような、三島のその美しい筆致に迫る映像面での努力も伺えなかった。
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