こーた

ローマ法王になる日までのこーたのレビュー・感想・評価

ローマ法王になる日まで(2015年製作の映画)
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わたしにとって映画とは教会のようなものだな。
教会へ行って、祈りを捧げる。
心にわだかまっている悩みを打ち明ければ、その心の結び目を、聖母がやさしく、ほどいてくれる。
信仰を持たないわたしの心の結び目は、映画がそっとほどいてくれる。

信仰とはなんだろうか。
教会はときの権力に利用され、かつ危険視され、いきすぎれば、弾圧される。
いくら祈りを捧げても、主は沈黙するばかりで、わたしたちを救ってはくださらなかった。
声をあげ、行動したものたちはさきに斃れ、生き残ったのは、主とともに沈黙したわたしだけだ。
あのときの沈黙は、正しかったのか。
信仰など無意味なのか。

信仰とは、軸だ。
軍事政権のふるう暴力にもへこたれず、経済成長が誘う欲望にも屈しない。
迷ったときにたち帰る場所が教会であり、精神の苦悩と日々向きあっているものからすれば、社会の結び目をほどくことなど、たやすい。
信仰という軸があれば、なにごとにも揺るがない。

聖職者は調整役だ。
信仰によって主と人間をつなぎ、対立する人びとをつなぎ、社会に蔓延る問題を、解決すべく奔走する。
その祈りがわたしたちの精神に、社会全体に安定をもたらす。

聖職者は演出家だ。
奇跡は、ただ待っているばかりでは起こらない。そこにはわずかばかりの演出も必要だ。
ひとびとを感動させる映画が、よくできた演出によって支えられているように、ほんの少しの演出が、信仰を現実のものにする。
信仰とは平等にそなわっているものであり、貧しく名もない市井のひとびとにこそ、主はいつもよりそっていてくださる。
その演出が、いつもそばで眠っている主を、ゆすり起こす。
その祈りが、奇跡を起こす。

奇跡とは物語だ。
人びとの語りつぐ物語は、やがて神話となり、その神話へ捧げる祈りが、やがては信仰となる。
信仰とは物語だ。その物語に、祈りを捧げる。
わたしにとって映画とは、お祈りのようなものだな。
物語があってよかった。
信仰があってよかった。
映画があってよかった。