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ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命のdm10foreverのレビュー・感想・評価

3.9
【信念の人】

昨年「女神の見えざる手」を観て、一気にジェシカ・チャステインの虜になってしまったdmです。
今回の彼女も「信念の人」という、ある意味共通点のある役どころでしたね。ただ、エリザベス・スローンと違って、今作のアントニーナは知略も毒も持ち合わせてはいませんでしたが、ある意味では全ての命への慈愛に満ちた「女神」の如き女性でした。

先日観た「否定と肯定」でも描かれていましたが、特に近代のユダヤ人迫害(第二次世界大戦のドイツが顕著)は、吐き気がするほどの蛮行だと思っています。
ヒトラーがどうのとかアイヒマンがどうのとかそういうことではなく、人間が人間に対してここまで残忍になれたという事が信じられないのです。
だけど、今作を観て思った。戦争という非日常下においては「戦うことは生きること」と洗脳されるため、生きるために人を殺すことがいつの間にか正当化されてしまう。そして、それはいつしか「生きるため」という冠詞がなくなり「殺すこと」が日常になってしまうんだなと痛感しました。いや、そうだったと言って欲しい。
そうじゃなければ、笑いながら平然と人間を銃で撃てる人間なんていないって言えなくなるから。

映画の冒頭、平和の象徴ともいえる動物園が爆撃を受け沢山の動物が殺されてしまいます。
自由に園内を走り回っていたラクダのアダムは命を持つ生き物が生命を謳歌しているかのように、本当に楽しそうに駆け回っていました。
しかし、そんなアダムもドイツ軍の兵士に無残に殺されてしまいます。
「動物だから・・」ではなく、ドイツ軍は「自分たち以外」を命とはみなしていなかったのです。邪魔ならどければいい、それくらいにしか思っていなかったんですね。
腹が立つとかそんな次元じゃなく本当に背筋が冷たくなる。人間がこうも残忍になれるんだと。そして自分もその人間なんだと・・。

ドイツ軍のポーランド侵攻によって幕を開けた第二次世界大戦ですが、ヒトラーが何故あそこまでユダヤ人を敵視したのか・・・。実は彼の著書「わが闘争」などでその理由の一端が書かれているが、実は論理的、哲学的な観点で当時のユダヤ系金融資本による世界介在支配を警戒していました。つまりユダヤ系の経済支配によってドイツの経済がコントロール不能に陥って、今よりも貧富の格差がより広がりドイツの統治自体が出来なくなってしまうことを危惧していたのです。
この考え方を切り取れば、ヒトラーはとてもロジカルな思考の持ち主であり、社会主義的なものだったとしても経済政策を本気でやれば、一時代を築くことこ出来たのではないかとさえ思えるのです。
では、何故そこから「ユダヤ人の大虐殺」にまで思考が飛躍していったのか・・・。
これ以上は第一次大戦からの話も絡んできますし、長くなりそうなのでまたの機会にしますが、そこから先は皆さんもご存じのように、あの「アウシュビッツの大虐殺」へと向かって歴史は針を進めます。

本当にどの映画でも感じるけど、ユダヤの人々が迫害されていく描写には心が痛む。
ヤンがゲットーから救出した少女は恐怖のあまりに心を閉ざしてしまったが、アントニーナの優しさに触れながら徐々に心を開いていく様子は、観ている側も嬉しくなってくるくらいだった。あの子が仲良しのウサギの名前を聞かれたとき「ピョートルって呼んでる。弟の名前だったから・・・」一気に胸が詰まった。彼女は奇跡的にヤンに助けられたけど、ほとんどの人は大人も子供も関係なく殺されているという現実があるんだと、あの地下室の何気ない会話の中に織り込まれた残酷なコントラスト。

ヤンは外で命懸けでユダヤ人を救い、祖国のために戦った。
アントニーナは動物園でドイツ軍に見つからないように神経を張り詰めた状況でユダヤ人を守り続けた。
どちらも命懸けだった。どっちのほうが凄いとか、どっちの方が偉いとかそういう事じゃない。比べるようなことじゃないのだ。本当にちょっとでも判断やタイミングを誤れば、その場で命を落とすような状況の連続なのだ。

そして、それを自分の為ではなく、誰かのために出来るということが凄すぎるのだ。
今の日本人は「平和ボケしている」と言われる。平和の何が悪い!と言い返したくもなるが、ある意味では反論できない部分でもある。

究極の状況で、自分や家族以外の命に対して、自分の命を懸けてでも助けることを選択できるだろうか・・・。
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