気骨を感じた。95年前の明日に起きた関東大震災を、ぼくらはほんの7年前に経験した。そんなぼくらの時代のなかで、こんな映画を劇場でみることができたことを、ぼくは胸を震わせながら言祝ぎたいと思う。
たしかにこの国では地震のあとに戦争がやってくる。けれどもそれは同時に、無産者階級万歳、アナーキズム万歳という叫び声を消そうとしてやってくる。その、茶番としか言いようのない愚行を、たぶん何度もなんども繰り返しながら、DNAを運ぶどうしようもない小舟が僕らなのかもしれない。
だからこそ、そんな重荷は、あの海に流してしまえばよいのだ。神の怒りに触れるという、その意味では冒涜的な儀式を、遊び抜いてやればよいのだ。だからこその太鼓、だからこその弦、どちらもピンとした張力への一撃から、世界を震わせながら、その抑圧の閉塞のどこかに「風穴」を開けるかもしれない。
たとえそこに、途中で結界に乱入して来る輩の干渉があって、風穴があかなかったとしても、一度ぼくらの胸の琴線を震わせた響きは、この映画のように、次々と共鳴してゆくはず。それはきっと、どこかで、小さな穴を開け、外からの風を流し込んでくれるはずなのだ。