カラン

イレブン・ミニッツのカランのレビュー・感想・評価

イレブン・ミニッツ(2015年製作の映画)
4.5

イエジー②

マクガフィン、の映画ですね。マクガフィンのためのマクガフィンによるマクガフィン映画です。染み、は純粋マクガフィンですね。マクガフィンは何でもない仮象ですから、手の上に乗せて直視してみれば、なんだこのかすは?なんだこのどうでもいいものは?と落胆することにしかなりません。つまり、マクガフィンとは人にそれを見たいと思わせる原因でありながら、それ自体は見ることができない何かになるのです。それを限界ギリギリで表象すると、染み、になるのでしょう。

ヒッチコックはマクガフィンに関して、まあまあの扱いをするのです。それは「なんでもかまわない」し、何とでも交換可能だから、その程度の扱いにしなければならない。詳しくはトリュフォーにでも聞いていただくと良いでしょうが、ヒッチコックを、ある意味で、馬鹿みたいに忠実に、馬鹿みたいに大げさにフォローしたのが、この映画なのかもしれませんね。褒めてるんですからね、これ。だから、イエジーさんがこの映画に関して、「この映画の全てを信じていただくか、逆に、全く信じないでいただくと、心強い。」と、確か、どこかで言っていたと思いますが、マクガフィンが全てを覆っている映画ですからね、イエジーさんがそういう反応を予想するのは、映画をコントロールしている証拠でしょうし、賢者の証しですよねー。

まあ、そういうわけですからね、この映画に対して敵意を感じる人がたくさん見受けられるのは、残念なことにも思えますが、イエジーさんにとっては、「心強い」ことなのであり、狙った通りに映画を作れたということなのでしょう。思うに、この映画に「イラつく」のは、自分が日々、欲望に挫折して、土の中のゴボウやらネギやらみたいな永遠的に報われない存在、一言で言えば、欲求不満になっていることを、目の前に突きつけられている気分なんでしょうかね。何しろ、マクガフィンは本質的に必ず失望を招くものであるのに、観客を釣り上げるルアーであるわけですからね。イラつくのも分かりますよ。「やられた!」、「騙された!」、「こんなつまらない映画を観てしまった!」と言いながら観てしまうのは、マクガフィンがマクガフィンであるからなんですよーん。マクガフィンが出現する時には、《本当のことを知っているはずの主体》が、同時に、前提されることになるのだと思いますが、イエジーさんは分かっていたのでしょうね、マクガフィンのルアーにかかって結局は挫折する鑑賞者たちによって血まつりにされるのが、転移の場に引きづり出される自分であることを、この映画の監督である自分であることを!

でもねえ、この映画がマクガフィンの映画ならば、そんな文句をつけてもしょうがないんですけどね〜。まあ、ちょっと成熟が必要でしょうね、この映画に愉しみを覚えるには! イエジーさんは1938年の生まれ。この『イレブンミニッツ』は2015年ですから、御歳77の作となります。


☆この映画を楽しめないが映画を愛する人のために、一言

イエジーさんは年をとって、周囲の人が1人また1人と亡くなっていき、抑うつ気味になり悪夢でうなされるようになったそうです。その状況で作られたこの映画は、悪夢の構造をしているのです。悪夢はしつこいものです。悪夢ですからね。そのしつこさが私には足りません。だから、五つ星にはしませんでした。デヴィッド・リンチの『マルホランドドライブ』は146分ですね。『インランドエンパイア』は180分です。これぐらいしつこくやらないと、知的には、整理されるかもしれないけど、感覚的には、どろっとした悪夢に浸れない。そこにちょっと薄さを感じてしまうのです。頭では分かるんですが、すいません、イエジーさん!

ところで、フロイトが夢の分析をしていて、基本的にはどんな夢でも整合性のある解釈ができるのだが、最終的には必ず不可解な核のようなものが残ってしまう、というようなことを言っていました。そのような理性的認識を誘っておきながら、しまいには崩壊させるに至る認識の臨界点を「夢のへそ」と言います。この「夢のへそ」という究極的に不合理な存在を、イエジーさんはこの映画で描いたのではないでしょうか。
カラン

カラン