ニューランド

ナンバー・ゼロのニューランドのレビュー・感想・評価

ナンバー・ゼロ(1971年製作の映画)
4.0
ユスターシュの映画の、観客にも自分にも媚びや甘えのない、ある種澄みきった、一方商業映画としては必需たる、こってりした脂肪たっぷりの厚みを欠く至れり尽くせりの無さは、また、ブレッソンなどとは違う企画・発想のキワモノ性の延長から生まれてもいる。映画を大きく超え、文明の発祥に疑問・ハッタリをかませたような、斜めからの切り込みは、また、それに浸ることなくタイトなそうは見えずも研ぎ澄まされたスタイルを構えなく実現させてゆく。そしてそれ以上に、知性・出自からの誠実さを求める手段でもある。
もともと、作品への感銘度とは別に、この作家への関心はそうなく、十数年前に満員入場STOPにぶち当たった本作だけを、何か口惜しいと観れればと思っていた。本作はどの作品にも増して、サービス・作者の念押しを欠く作品である。冒頭の孫と街を歩くシーンの無駄もなく素晴らしいデクパージュを除けば、フィルムチェンジ前後も入れ・ズームや寄り望遠サイズそして90゚に充たぬ角度変(2台目カメラ)だけの、(質問の作者をナメた)老婆の語るだけの図、まるごと記録に終止する(作者に外部から電話が入った時だけ作者の後ろ姿だけの図となる)。本来は1時間のTV用作品らしいが、そっちの方が集中度・再構成の才が見られたのではと思う位である、目立たない抑制は効いてるが。
しかし、ここには手が加わる前の、何の知的or豪腕操作の無い、作者(とその祖母)の生身の正直な姿がまるごとある。はた目には右往左往しているようで、自分では深く悩まず損得では説明つかぬ(何かの)最短直進を選択し続けてくオーデットの人生と語り。彼女がその人間性や浮気性を何回も口汚く罵る継母や夫も、割り切れない図々しい迄の生のさがの、奔出の絶え間無い計り知れぬ力があり、それを切り棄てきることのない彼女も不思議なスタンス、「本当に幸福あったは7歳まで」聖的に崇める母や祖母は逆にどこか足許がおぼつかなく不安定、恩ある女校長との関係や晩年病魔・夫婦関係に怯える父も独自で、本人もまわりの困難対応に終止符を打たんとして都度どこかはみ出てる、ひどい奴には一時暴力威嚇も当然みたく(外見陰気地味受身も、思った事には躊躇なくぐいぐい当たり前如くの一面も)。とどまらぬスキー大回転的人生は充分ドライ・かなり反ユマニスムで、「不幸続きも」、ウエットさも悔いもなく、当たり前に生を渡り歩き・語る。孫も妙に共感せず、それは既に互いに通底済みの近親者ー同士でしかない阿吽(あるいはそれ無し)で、ぐんぐん舵をきってく勝手承知さ? ちょっとありそうでない(特に撮影記録作品では)。彼女の今の、心のあり方は生への執着・関心もなく、蝋燭立てて(全ての)死者の安らぎを祈るだけ、と言う。子等の多くを失うも、基本、長寿の家系とおおらか。自己憐敏や理想とその喪失感にはまらぬ人生・世界(観)の飾りないあるがまま、それ以上に共生できるあらゆる人間の差異を打ち消してゆく、総体・実体のあらわれ。制御が囲んでて暴力やりとりもためらい少、今は失われた世界観・処世、失ってはならなかったかもしれない側面。
本作でも何回も話に出てくる故郷ペサックの祭を収めた2作も、本作のチケットを売り切れ前~本来の睡眠時間に手に入れたついでに「半ば眠りながら」観ることになった(調べればわかるが再見なのかなぁ)が、’79作の自然な行事・祭の進行・盛上りに完全に溶け込み、参加者の内面の力・(深層)記憶の併さった、美を導いたような才気・制御・解放は恐るべきもの(同時に目立たせずもこの人のデクパージュの記憶・把握力はやはり須藤さんという方が仰ったように凄いものだ)で(’68作の方が、整えきってなくて、はみ出た人間味はあるが)、ここまでくると、更に何か新しい発展を望めたのか、完成も感じ行く先が見えてきたと思って普通だったのか(勿論、バリエーションは更に拡がるだろうが)、ちょっと判らなくもなった。
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