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ダムネーション 天罰のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ダムネーション 天罰(1988年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

 「タル・ベーラ 伝説前夜」にて観賞。確かに伝説前夜として、その長回しはまだどこかタイミングもぎこちなく、気がつくと静止して画が固まってしまっている(音楽はサイコー!)。また形式とテーマに乖離があり、男女の痴話をこの重厚な形式でもって絶望的に語れたかというと正直微妙であった。だから、やたらと主人公が相手の歌手の女とその夫に「終わり」を宣告されるのだが、そこまで終わった人生なのだろうかと疑問だった。主人公にとっての絶望が、歌を歌っているはずの相手の女がそこにおらず、連れ合いのあそこをしゃぶって塞がれ(ブロウジョブに見るヴィンセント・ギャロとのエゴと絶望の呼応)、ダンスホールは彼女なしに伴奏だけで成り立つというシーンで表される。そしてその歌声なしに踊る無辜の民にはその男の絶望が覆いかぶさり、彼らを穿つべき存在に仕立て上げる。しかし、演出が上手くても、いくらなんでもその視点は主観的すぎる。こう見ると演出はやはり監督が主人公を贔屓目で、というか監督の主観で作られた世界のように思う(それを表すかのように文字通り彼の上"だけ"に降り注がれる雨は大仰で可笑しかった、トゥルーマン・ショーと同じ)。ただこれを撮らなければ以降の作品群にはたどり着けないのも事実なのだろう。今作は主人公のエゴと監督のエゴが奇妙にリンクし、自己克服のために映画作家がしばし陥る独善的な作品となっているように思う。

 少し遅れて判明する。例えば冒頭ひげを剃るシーンがあるが、それが後々浮気相手の元に行く身支度の過程としてであると判明する。また、壁際に隠れて車が去るのを待つのも、その妻の夫と子供がいないタイミングを見計らっているとわかる。しかし、そうなると今後見るカットが伏線めいてくることになる。そのシーン単体としての面白みというより、文脈を説明するショットとなってしまう。そうなると画としてよりも情報としての価値が高まり、しかし情報を得るには冗長すぎてしまう。また何かを待つかのように、カット尻が異様に長い。次のカットに行くまでの謎の"溜め"、恐らくこれは監督自身が何か起きるのを待っているのだと思われる。特に、タル・ベーラ作品には度々救世主のテーマが登場するように、今作でもそれは監督の主観映像として現れていると考えられる。彼は演出を超えた何かを本気で待っていたのでは?

 待つ。主人公の、仕事も恋愛も天秤にかけつつどちらも上手くいかない状態。そうなると彼は待つばかりである、何かが変わるのを。「ゴドーを待ちながら」状態。今作ではダンスシーンが終わった後、誰もいないホールで一人リズムを刻む男がクロースアップされるほどに注視に値する救世主的素ぶりがあった。しかしタル・ベーラはどの作品でもその救世主を掴み損ね、幻想であると悟るのだ(今作ではまだ悟っていないかもだが)。次作「サタン・タンゴ」が前後の歩行をひたすら追うことで"待つ"という受動的ニヒリズムを克服しているが、その歩行の当て所なさはかえって絶望的である。行き着く「ニーチェの馬」がその当て所なさに結論をつけていて、彼のフィルモグラフィーは長い旅を終え完結したように思える。
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