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田園に死すのdm10foreverのレビュー・感想・評価

田園に死す(1974年製作の映画)
3.9
【エロス】

寺山作品との出会いは偶然でした。15年ほど前、近くのスーパーの催事コーナーでレンタル落ちのビデオが500円均一で売られていた中に「演劇実験室天井桟敷~身毒丸」のビデオがポツンと置いてあって、そのパッケージの異様さから目が離れず、速攻で手にとって購入し、興味本位で見たのが最初です。
内容もそうですが、舞台で繰り広げられる異様な光景や登場人物の奇怪な演技に度肝を抜かれて、テープが擦り切れるまで観ました(ちなみに後で知ったのですが、そのビデオは今では絶版となり、マニアの間で高値で取引されているそうです)。

そんな出会いがあって、寺山修司という名前が鮮烈にインプットされた状態で見つけたのがこの「田園に死す」です。

一言で言うと、舞台では不可能な表現を「映像」という媒体を使って見事に具現化した傑作だと思います。個人的に大好き。・・・ちょっと万人にお勧めはしにくいけど。

顔を白く塗りつぶした主人公や、小人、空気入れで体に空気を入れてもらう女など、浮世離れした登場人物が次々と登場しますが、どれも潜在的に感じる不快感が漂う悪夢の登場人物のような奇妙な感触がずっと尾を引きます。

先日別の映画で触れた「三島由紀夫」もそうだったけど、文学であれ絵画であれ彫刻であれ、人間が人間に対して美を感じる瞬間って、結局「エロス」は切っても切り離せないものなんだろうなということを強く感じた。
それは単純に「脱いだ」だの「抱かれた」だの「B地区が見えた」だの、いわゆる僕らが空気を吸うように日常的に感じる「エロい」という事だけではなく(勿論全部は否定しない)、物憂げな表情で椅子に腰掛けながら化粧を直している女性の仕草とか、憎いあん畜生に仕返しをするための算段を考えている悪~い時の女性の目とか、レアのステーキを無言で食べ続ける女性の口元とか・・・日常のふとした所にもエロスって潜んでいるわけで、突き詰めていけば、普通の人が表現したくてうずうずしているんだけどうまく表現できないような「そういうもの」を、文章だったり映像だったり、もしかしたら音楽だったりと表現できる人を「芸術家」と呼ぶんだと思う。

そういった意味では、この寺山修司も間違いなく「芸術家」の一人だろう。
表現力が豊かだから?勿論それはある。ていうかそんなことお前に言われたくないって怒られそう(笑)。
そうじゃなくて、人間が誰しも持っているような「歪(いびつ)」や「卑猥」や「暗澹」のような「外に向けて放出できないような感覚的なもの」を、決して直接的ではないんだけど抽象的に「重さ」「暗さ」「低さ」などで、絶妙な塩梅で表現してくれる。

それはこの映画の映像から滲み出る質感、臭い、温度、なぜか生体反応の薄い人間たち・・・様々なものに宿る「エロス」が、あらゆる場所から染み出てくるのだ。

母が不在の家の中。
息子は母が普段読んでいる女性誌を「覗き見」する。
そこには夜の夫婦生活に関する記事が・・・。

たったこれだけですが、もうこの光景自体が100点です。
単純に「エロい本を読む」という行為だけに人はエロスを感じない。
その背徳的なシチュエーションがこのシーンの温度をどんどん上げてしまうんですね。

それはこの作品だけではなく「天上桟敷~身毒丸」のとき感じたんだけど、「年上の女性」の描き方(実は母親も含む)がとても生々しくて、それは決して裸を想起させるような直球ではなく、未成年の青臭い妄想の中に存在する淫靡な生き物のように、ぬるりと主人公に絡みつく。
隣に住む若い人妻との駆け落ち、母殺しの算段、決して思い通りには行かなかった思春期の思い出。
果てしなく陰鬱な画が続くのに、何故かその世界の住人になってみたいと思う自分がいた。
狂気じみたあの世界にもリアルはあって、実はそのリアルこそが今の自分をかろうじて肯定してくれてもいて・・・。

「新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」

OPのこの一行が鮮烈過ぎて、このシチュエーションの夢まで見てしまったくらい。
残るわ~。じっとりと。
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