怨念大納言

田園に死すの怨念大納言のネタバレレビュー・内容・結末

田園に死す(1974年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

衝撃のシーンの連続。
泥臭い芸術性にまみれた怒涛のような映画。

冒頭。故障により鳴り止まなくなってしまった壁掛け時計を、直せばいいのに村の慣習を優先して直さない主人公の母。
絶えず鳴り続ける時計は、ノイローゼになりそうな田舎の息苦しさを象徴している。
利便性を犠牲にしても習慣を優先させる。

時計に関して印象的なのは、「家の時計は壊れている」という主人公に対して、「これがこの家の時間なんだ」という母親の答え。
これが非常に恐ろしい。
外から見てどんなに狂った慣習でも、その内側にいれば守らざるを得ないんだろう。
特に田舎は。

村人の顔が白塗りにされているのは、後述の「厚化粧」の暗喩と取るのが自然なんだろうけど、集団の中で個を殺して生きる村人の、愚かさや恐ろしさも現しているような気がする。

前半は、そうした窒息しそうな田舎の息苦しさとの中で、死んだ父親とのお話が趣味の暗すぎる主人公と、その主人公を溺愛する母親の暮らしを描写される。

後半は、実は前半は映画で、主人公は続きの作成に悩むという展開。
この悩む理由に度肝抜かれました。

過去を作品にしようとした瞬間、過去は厚化粧した歪な存在となり、元々あった過去は無くなってしまうと。

成る程…。
衝撃的ですが、心底共感出来る。

いかに自然体でいようとしても、外に向けて発信しようとした瞬間に人目を意識して過去を装飾してしまう。
一度装飾すると、元の過去は消えて無くなる。

また、言語化という壁もある。
人間は、自分の理解力の限界以上に理解は出来ないし、表現力の限界以上の表現は出来ない。
例えば自分の過去を「美しい」と表現した瞬間に、その過去は「美しい」という言語の枠に収められて、その枠の中で表現されない要素は消失してしまう。逆に「醜い」と表現しても同じ事だし、どれだけ事細かに描写してもそれは同じ。
物事の本質は、私の表現力なんかより遥かに複雑で奥深いはずだが(恐らく、寺山修司の表現力をもってしても)、表現による厚化粧を施さなければ他人には伝えられない。
恐ろしいジレンマである。

随所に入る短歌もいい。
特に好きなのが、
「見るために両瞼を深く裂かむとす剃刀 の刃に地平を移し」
観察への狂気的情念がひしひしと伝わってくる。
他の短歌もだけど、何処か俳句っぽい。
モノを詠むというか。

この後、主人公は過去の自分を殺しにゆく衝撃展開。

あとはもう…。
川下り雛人形、田園将棋、セックス長回し、ハリボテ田舎という伝説シーンの連続。
ラスト、「所詮これは映画なのだ」「創作の中でさえ母を殺せない私は一体何者なのか」。

凄い。

芸術、表現、郷愁、自由、過去…。
こうしたテーマの答えを提示するでも問いかけるでもなく、ただ深い所を揺さぶる映画。
怨念大納言

怨念大納言