”世界”
”未来”とは希望に満ちた光の世界だと信じ込まされていた我々に等身大で逃げられないであろう未来を提供したのは、リドリー・スコット監督の82年公開作「ブレードランナー」に他ならない。車は空を飛び、ホログラム広告と高層ビルに満たされているも、残酷なまでの酸性雨と雑多で汚らしい未来像に人々は心の何処かで安堵していたのかもしれない。それは今の人生が紛れもなく”自分自身”のもので”特別”な存在でないと諦めていた節もあるからだ。
「ブレードランナー」の続編?
必要なのか?
あの謎に満ちた世界観を我々が個人として解き明かし、解釈するだけで良かったのではないか?ある種”聖書”のようなものでパーソナルなセカイで良かったのではないか?
そこにドゥニ・ビルヌーブは踏み込んだ。
そこで描かれた世界は”世界”でなく、”セカイ”の切り抜きであり、彼のフィルモグラフィから放たれた作家性がロジカルに繋がっていたことを証明した。
あくまで「ブレードランナー」の世界でありながら、主人公”K”の”セカイ”が、陰鬱な未来に熱を持って切り出されていたものだと感じた。
各々が自身を”特別視”したい欲求を持ち、存在証明中毒に陥った現代の自己を持ち込み、非常に”エモい”作品として体温を持っているのが「ブレードランナー 2049」である。
デッカードとの遭遇や新たなるレプリカント創造主、ラヴと名付けられた宿命に生きるレプリカント、AIの実装されたホログラム人形JOI、ブレードランナー世界の市井の人々…
映画評論家の町山智浩さんが「フォースの覚醒」のようだと言った理由も頷ける。新たなセカイの人々のスタイルがそこにあった。
上映時間が長すぎる
思わせぶりな演出
解決に踏み切っていない
それがどうした
”ぼく、ドラえもん!”
「それがどうした!」
なのだ。
人であれ
レプリカントであれ
産み落とされた世界に存在意義を見出し、生を実行し、もがき、嘆き、悲しみ、憤怒し…
人であれ
レプリカントであれ
手に入れたい”何か”があり、それに手を伸ばした熱量が存在となり、意義となる。
多種多様、多文化社会
世界はセカイで溢れている
愛を求めて渋滞している
その中で”自己犠牲”という上位思考を手に入れた者は、その顛末がどうであれ、自己のセカイに暖かな温もりが降り注ぐであろう。
たとえそれが雪であっても
映画とは数学のように思える。
補助線や経験から図形の合同や相似の証明をするように難解な問題を出した創造主たる出題者に近づきたいと答えを模索するわけなのだから。
望まれていないかもしれない未来に、私のジョイちゃんがいることを願って貯金します。